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第1章

 「打ち出の小槌というのを知っているよな。一寸法師が手に入れた、何でも願い事がかなうという、ドラえもんのポケットから出て来るような便利な道具だ」


 南九州にある予備校の数学講師の横川忠志が、浪人生相手の午前の授業の冒頭で、唐突に話し始める。生徒は何の話だと、ぽかんとして聞いている。


「井田、お前だったら何をお願いする?」


 横川は最前列に座っている生徒を指名する。高校時代はテニス部のキャプテンでインターハイの県代表にもなったことのある、いつも真っ黒に日焼けした生徒だ。成績は伸びてきたとはいえ、志望している医学部にはまだ遠く及ばない二浪生である。井田は、突然の指名にも関わらず、生真面目に考えてから答える。


「やっぱ、共通テストで満点が取れますように、じゃないですかね」


「まあ受験生だったらそうだろうな」


 すると、四列目に座っている生徒が声を上げる。


「俺だったら、やっぱりお金かな。百億もあれば、苦労して大学に進まなくても、一生楽して暮らしていけるだろうし」


 生徒達は爆笑し、横川も苦笑いせざるをえなかった。


「確かに共通テストで満点だったとしても二次試験で失敗すれば、落ちるかもしれない。それに、たとえ百億円手にしたとしても、やっぱり千億、いや一兆円の方が良かったと、後で後悔するかもしれないんじゃないかな?」


 横川は四列目の生徒に向かって問いかける。


「人間の欲にはきりがないからね」


 生徒達が隣同士を見合いながらざわつく。


「一寸法師は『背が高くなりますように』というつまらん願いで使い切ってしまった。まあ、それが切実な願いである人もいるには違いないが」


 二列目に座っている小柄な古館和泉が、納得したようにうなずいている。


「それに残念ながら打ち出の小槌は、三回しか願いをかなえてくれないという致命的な欠陥があるんだ。だから願い事を選ばなければいけない。しかし人間の欲望は無限だから、ジレンマに陥ってしまうわけだ。でも、その欠陥を打ち破る秘策があるんだな」


 横川は思わせぶりに微笑する。


「それはどんな方法だと思うか、高野」


 横川は三列目の高野元を指名する。しかし高野はあまり興味がなさそうで、テキストに目をやったまま、黙っている。


 横川は少し気落ちしたものの、何人かの生徒は興味深そうに横川を見つめているので、気を取り直して話を続けた。


「打ち出の小槌の最大の弱点は、願い事に回数制限があるということだ。しかし逆に、どんな願い事でもかなえてくえるという、とんでもない特典を兼ね備えているわけだ。だったらそれを最大限に生かして、最初に『何回でも願い事がかないますように』とお願いしたら良いじゃないか。打ち出の小槌が何でも願いごとをかなえてくれるという前提条件ならば、その願い事もかなうわけで、だったらその後は気兼ねなく、何回でも願えばよろしい」


 横川は、したり顔で生徒を見渡す。

「それはインチキだ」


 前列にいる生徒から、笑い声が上がる。


「いや、理にかなった願いだろ。論理的には全く正しい。でもまあ、それは少し厚かまし過ぎるかもしれんな」


 横川は頭を掻くふりをする。


「そりゃそうだ」


 四列目の生徒が横川を冷やかす。


「さすがに何回でもとか、つまり無限にお願いをかなえ続けてくださいというお願いに関しては、神様にとっては認められないかもしれんな。なぜならば、人間は有限な存在に過ぎないわけで、無限とかには権限がないとかいう理由で、拒否されるかもしれない」


 頷く生徒たちも何人かはいるが、何を話しているのかを理解できていないといった表情の生徒の方が多い。


「でも、神様にばれないようにうまくお願いすれば、何回でも使えるようになる方法があるんじゃないだろうか」


 あまり気乗りしていなかった生徒たちも、横川を注目する。


「井田だったらどうお願いする?」


 横川は再び同じ生徒を指名する。井田は一生懸命考えているが、答えが出てこない。


「誰か分かったやつはいないか?」


 横川が全体に呼びかけるが、案の定、皆黙ったままだ。横川は教室を見回してから、勿体をつけて話し始める。


「『何回も』とか『無限に』とかいう言葉が拒否されたとしても、それを使わなくても、永遠に願いをかなえ続けさせる方法があるんだな。どんなお願い方法だと思う?」


生徒たちは黙ったままである。


横川は、少し気取った表情で話を続ける。


「そのお願いとは『お願い事がかなったなら、もう一度だけお願いをかなえてください』だ。もう一度だけという極めて謙虚なお願いなんだから、神様も拒否しないだろう。『はいはい、じゃあ聞いてあげよう』ということになる。しかし、お願いがかなうともう一回お願いをかなえなければならない。そうすると、そのお願いがかなったんだから、更にもう一度願いをかなえなけらばならなくなる。だから神様は、こうやって延々と願いをかなえ続けていけなければならなくなるわけだ」


 生徒たちは、ようやく話の内容が理解できたらしく、爆笑する。そして横川はすぐに「これが数学的帰納法の原理だ」と言って、黒板に「n=1のとき成立、n=kのとき成立と仮定するとn=k+1のときも成立」と大きく書き、赤いチョークで丸く囲んだ。


 百五十人は入る教室だが、今三十人くらいの生徒しかいない。この予備校の数学科で一番人気の横川の授業ですら、こんな有様だ。

座席は指定されていないが、最初の授業で「前から三列以内が合格圏」とか脅かして出来るだけ前に座るように促してはいる。だがその効果もなく、今の話にも興味を示さず、後ろの窓際に座って、ぼんやりと外を眺めている生徒もいた。


 ここ十数年で、受験生の雰囲気が急激に変化してきたんじゃないかと、横川は感じていた。それは、この南九州にある予備校「秀英アカデミー」だけではなく、全国的な傾向なのかもしれない。

かつて言われていた、いわゆる「ゆとり教育」もその発端の一つかもしれないが、もっと根本的な要因がある。そもそも今では、大学入学定員が志望者数を上回っていて、受験生が選り好みしなければ、どこかの大学へは入学できる時代である。


 しかしもちろん、偏差値の高い大学の人気はまだあるし、そこへ入学したいと思っている受験生もいるのは確かだが、名前の通った大学を出たからといって一生安定した生活が送れるような時代でもないから、浪人までして第一志望にこだわる受験生が激減している。


 しかも入学試験自体、在籍している高校で推薦されれば即合格が決まる「指定校推薦」や、小論文や面接だけで選抜する「総合型選抜入試」など、高校生が現役で大学に入学できる制度が益々拡大していて、難関大学を目指すために「浪人してまで頑張ろう」なんて受験生は激減しているのが現実だ。


 チャイムが鳴って、次回までに予習してくるべき範囲を伝えてから、横川は教室を後にする。


 すぐに一人の女生徒が横川の後を追ってきて、階段の踊り場でノートを広げ、「この解き方でも良いですか?」と質問する。


「これだと十分性が示されていないな。まあ共通テストならば答えが出ればいいから、これでもオッケーだけどね」


「ありがとうございました」


 その女子生徒は、最初の模擬試験では数学は半分も点が取れていなかったが、夏期講習明けの模擬試験では七割を超えてきて、順調に伸びている生徒の一人だった。いつも授業では最前列に座っている、横川のファンでもあった。こういった生徒がいることで、どうにか横川のモチベーションは保たれていた。

 職員室の自分の席に着くと、副学院長からの伝言メッセージが置かれていた。


「本日四時からミーティング」


 またか、と横川はため息をついた。夜間の高校三年生対象の授業まで時間があるので、貯まりに貯まった宿題の添削を片付けたかったのにと、舌打ちした。それにしても最近は会議が多すぎる。


 横川は校舎を出て、歩いて数分のところにある定食屋に向かった。午前中に授業のある日は、大概その定食屋で昼食をとる。


 かつてこの店は若手講師の溜まり場だった。


 午後の授業が無い時などは、勤務時間中であるにも関わらず昼間から、店の奥の座敷でビールなどを注文し、ベテランと呼ばれている講師たちの教え方を批判したり、地元国立大学の入試問題を酷評したりといつも賑やかだった。そして、それが許される雰囲気でもあった。


 横川は、十四、五年前のその頃のことを懐かしく思い出しながら、食事を終えて一人で夜の授業の準備を始める。


 横川が勤める「秀学アカデミー」は、この地方の中核的な予備校として、かつては浪人生だけで二千五百人の生徒を抱えていた。高校生や小中学生部門を加えると、四千人を超える生徒が、この本部校舎の他、七つのサテライト教室に在籍していた。


 地元ラジオ局の深夜時間帯に冠番組を持ち、大学合格実績、新年度学生募集、夏期講習会の受講生募集などの広告を、年に何度も地元新聞に全面で掲載していた。


 そして、地元国立大学の定員千五百人中三分の一である約五百人の合格実績を誇り、特に難関の医学科九十人中四十人余りの合格実績は、県内他の予備校や塾を圧倒していた。東大や京大への合格者も、数人ではあるが、毎年出していた。


 しかし生徒数は十年前から急激に減少し始め、今やピーク時の三分の一となり、校舎も二か所に縮小した。二百人いた「専任講師」も、三十人まで減った。浪人生の数が激減したのに加え、衛星やインターネットを利用した映像授業などで、自分の好きな時間に勉強できるという「手軽」な学習環境が、ここ数年で急速に浸透してきたからだった。


 だが、県庁所在地でも人口が三十万人程度の地方都市だったから、いわゆるかつて「御三家」と呼ばれている全国規模の予備校の進出がなかったため、全国の地方予備校が次々と潰れていく中、なんとか持ちこたえてきたといったところだ。


 秀英アカデミーは、翻訳事務所を営んでいた笹川明が、近所の子供たちを集めて英語を教えているうちに評判となり、昭和四十年代の大学進学率の上昇と共に急速に拡大してきたという、全国の予備校と同じような経過をたどってきた。ただこの規模の予備校では珍しく、各種学校の認可はとっているが個人立のままで、学校法人ではない。


 そのせいもあって、組織が未整備なままのワンマン経営で、古い体質から抜けきれず時代に取り残されてしまったと、横川は感じていた。


 創業者の笹川明は今でも学院長という肩書だが、実質的な経営は、長男の笹川貢に七年前から任せている。


 笹川貫は横川忠志の一つ上の三十八歳で、東京の私立大学の英文科を修士まで出て、他の仕事に就くことなく、呼び戻されて英語の講師を数年体験させられてから、副学院長という立場で経営の見習いをやらされてきた。


 今では実質的な経営者ということではあるが、引退したといえ父親の意向には逆らえず、思い切った改革も難しかった。それに、大学受験の時に自身がこの予備校で学んでいたから、その頃に教わった講師がまだ残っていることもあって、やり辛いということもあった。だから、厄介な仕事は大抵、横川みたいに彼より年下の講師に押し付けてくる。


 しかしそれでいて、ワンマン経営の体質は先代のときから変わることもなく、経営に関して職員が口を出せる雰囲気でもない。


「いけない、もう三時半か」


 横川はテーブルに広げていたテキストやら計算用紙やらをかばんに詰めて、急いで店を出て校舎に戻った。


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