第6章
十月になって、受験生たちにも焦りの色が見え始めてきた。
順調に成績の伸びている生徒達でも、まだやり残したところに不安を残しているからいだから、成績が伸びていない生徒は、悲壮な表情が漂っている。それまでは、どちらかと言うと表情に出なかった和泉も、明らかに苛立っているようだった。
「数学は数Ⅲを捨てて。それ以外の所に集中したから、全体的に伸びてきているじゃないか」
土曜日の補習で、横川は励ますつもりで和泉に話しかけた。和泉は、首を横に振って「やっぱり駄目かもしれない」と弱弱しく呟いた。
「そんなことないぞ」
力強く反論した横川だったが、確かに難しいと、自身でも思っている。
「もし今年駄目でも、もう一年頑張れば届くかな?」
和泉が横川に尋ねる。
「今の調子で伸びていくならば、可能性はあると思う」
横川はそう言いながら、今年は難しいと言っていることになると思ったが、素直な感想を述べた。
「でもお父さんが一年限りだと言っていたから」
和泉は泣きそうになる。
「お父さんと一度話してみようか」
横川は目を潤ませている彼女を見て、なんとかしなければならないように感じた。
「本当?」
和泉の表情がパッと明るくなった。
「でも、今度の試験も可能性があるんだから、最後まで頑張るんだぞ」
「先生、分かっています」
和泉は鞄から、数学のプリントを取り出して、一生懸命問題に取り組み始めた。
翌週半ばの夜、横川は和泉の父親と駅前のレストランで落ち合った。横川は予備校の面談室で話をしようと思っていたのだが、日頃お世話になっているからということで、食事に招待してくれたというわけだ。母親も来ていて、両親の和泉に対する教育熱心さが伝わってくる。
和泉本人は来ていなかった。「本音で話しましょう」という先方からの提案だった。
「先生、いつもうちの娘がお世話になっています。出来が悪く、世話が焼けると思いますが」
ビールで乾杯しながら、父親が話を切り出す。
「いえいえ、良く頑張っていますよ。最近は急速に伸びてきましたし」
「でもやはり、来年は難しいでしょうね」
「まあ、難関ですから」
横川は口を濁した。
「無理に医者にならなくても良いんですけども。長男が医者を継いでくれますので」
「本人は、お父様やお兄さんの姿を見て、医者になりたいと思ったんじゃないんですか」
「あの子は医者の仕事がどんなものかと言うことが分かっていないんですよ。家ではあまり仕事の話はしてこなかったから」
「いえいえ、医者の仕事の大切さを、彼女なりに理解しているのでしょう」
横川は、和泉が「美人女医」に憧れて医者になろうと思ったらしきことは、口には出せなかった。
料理が運ばれてきて、それからは最近の医療現場の事情や、大学入試の状況など、一般的な当たり障りのない会話が続いた。母親は同席してって聞いているだけだった。
料理が一通り終わりデザートが運ばれてきた時に、母親がようやく口を開いた。
「ところで先生、和泉はどう考えているのですか。なかなか親には本当のところを話してくれませんで」
横川はコーヒーに注いだミルクをかき回しながら、話し始めた。
「はい、本当のところを言うならば、今年は難しいと思いますし、本人もそれは分かっているみたいです」
横川はコーヒーを一口飲んでから話を続けた。
「でも順調に成績が上がってきているのは事実です。模擬試験の結果はご覧になっていますよね?」
二人とも頷いた。
「だから、もし今年が駄目だったとしても、もう一年トライしてみたい、というのが和泉ちゃんの気持ちのようです」
父親がコーヒーカップを静かにテーブルに置いて、溜息をついた。
「二浪となると卒業するのは二十六です。その後研修医とかもありますから、一人前になるのは三十です。私は和泉には、もっと平穏な道を歩んで欲しいと思っているんですよね、本当は」
偽らざる親心だと、横川は真剣に受け止めた。
「和泉はなぜ医学部を目指そうと思ったんでしょうか? 高校二年生まではそんなことは話さなかったのに」
母親が尋ねる。
「いや私も分かりません」
美人女医の話など、出せるはずはなかった。
「でもお父さんやお兄さんの姿を見て、何らかの思いが生じたんじゃないですか」
一応ありきたりの感想を述べる。
「二浪すれば受かるんでしょうか?」
父親が真剣に尋ねてくる。横川は真剣に答える。
「和泉ちゃんの最大のネックは数学です。高校時代にあまり出来ていなかったわけですから」
「確かに女子高でしたから」
母親が相槌を打つ。
「特に数学Ⅲは高校時代殆ど手を付けていなくて、浪人してから始めたようなもので、これが間に合わない最大の要因となっています」
父親がうなずく。
「しかし数学Ⅲを課さない医学部も、わずかにあります。それで今、それに向けて対策を行っていて、そこならば可能性は見えてきたと言ったところなんです」
「可能性はあるんですね」
母親の目が輝く。
しかし横川は努めて冷静な口調で話した。
「でも、最初からここに絞ってやっていたら良かったんですが少し遅かったかもしれません。私の指導が至らなかったと思います」
横川は頭を下げた。
「いえいえとんでもない」
父親は手を横に振った。
「ところで、北川先生から、別のルートで入学できるという話を聞いたんですが」
横川はドキッとした。
「別のルート?」
横川は初めて聞いたかのように装った。
「瑞枝、お勘定をお願いします」
父親は妻に請求書を手渡した。
「あっ、ごちそうになります」
「いえいえ、ほんのお礼です。ところで先生、もう一軒お付き合い願いませんか?」
「はっ?」
「それほどお時間は取らせませんので」
母親が勘定せてきて、三人は席を立った。
「瑞枝、先生ともう一軒寄っていくから、先に戻っておいてくれ」
「はい分かりました」
ホテルの玄関で母親を見送ってから、父親が歩き出したのでそれに付いていく、
「仙谷街に行きつけのお店があるので、そこにちょっと付き合っていただければと」
仙谷街は、この街随一の社交街である。
「ええ」
横川は付いていくしかなかった。ほどなく一軒のクラブに到着する。「クラブ」と言ってもガンガンと音楽を流して若者が踊っている「クラブ」ではなく、昔ながらの、高級スナックといった店である。
「いらっしゃいませ、あら古館先生、お久しぶりです」
ママさんが迎えてくれる。
「あら、確か笹川先生の学校の先生でしたよね」
ママさんは職業柄記憶力が良いようだ。校長の笹川明は酒は飲まないが、県外からのお客さんの接待でこの店を使っていたようで、横川も何度か同席させられたことがあった。
「娘がやっかいになっているんでね」
古館は笑ってボックス席に腰を下ろすと、若い女の子が相次いで席に着く。
「ボトルをお願いね」
古館は常連のようで、ママがすぐにヘネシーのボトルを持ってきて、横に座る。
女の子が手際よく水割りを作って、乾杯となる。
「そう言えば和泉ちゃん、今年高校卒業でしたよね」
ママは古館の膝に手をついて話しかける。
「ああ、それが浪人してね、医学部に行きたいって言うんだ」
「まあ素晴らしい」
ママは古館にグラスを重ねる。
「それで笹川先生の予備校で勉強なさっているのね」
ママが横川の方を向いて尋ねる。
「ええ、一生懸命頑張っていますよ」
横川もヘネシーの水割りを口に含む。
「ところで横川先生、北村先生の話、詳しく聞かせていただきませんか」
古館が話しを切り出す。
「ママ、ちょっと先生と話があるから、席を外してくれないか」
古館はママに声をかける。
「ではごゆっくり」
ママは二人の女の子にも席を外すように促す。
「北村先生の話って?」
横川はまだ何の話か分からないふりを続けた。
「例の理事推薦枠の件です。ご存知なんでしょ」
北村は和泉の両親に、理事推薦枠の話をしていたのだ。だったらなぜ自分で進めるのではなく、自分を巻き込むのだろうか。横川は益々訳が分からなくなっていた。




