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『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』第9話
-星条旗の猟犬と、海辺の箱庭-
西暦二〇六〇年。どれほどテクノロジーが進化し、空を自律型ドローンが覆い尽くそうとも、国家間のパワーバランスを象徴する「場所」の空気は、二十世紀から何一つ変わっていなかった。
東京都多摩地域に広がる、在日米軍横田基地。
深夜の滑走路に、重低音を響かせて一機の米空軍大型輸送機が着陸した。
水たまりを蹴立ててタキシングを終えた機体の後部ハッチが開き、白白いハロゲンライトの光と共に、二つの影が日本の地へと降り立った。
CIA特別捜査官、アーサー・ヴァンス。
そして、合衆国最新鋭軍用人型AI『アイリス』。
湿気を帯びた日本の夜風が、アイリスの白銀の髪を静かに揺らす。彼女のアイスブルーの瞳は、周囲の環境データを瞬時にスキャンし、網膜の隅に驚異的な速度で展開させていた。
彼らを迎えに出たのは、二つの異なるチームだった。
一つは、アーサーの直接の部下であるCIAの非合法任務チーム。
そしてもう一つは、揃いの漆黒のタクティカルギアに身を包んだ、巨大軍産複合体『ニューロ・ジェネシス』社の支援チームである。
「ようこそ日本へ、ヴァンス捜査官。ジェネシス社極東支部・特務支援班です。以後のロジスティクスと技術支援は、我々が全面的にバックアップします」
ジェネシス社のチームリーダーが、慇懃無礼な笑みを浮かべて手を差し出した。
アーサーは、その手を握り返すことなく、氷のような視線で彼らを一瞥した。
――きな臭い。
長年、情報戦の泥沼を這いずり回ってきたアーサーの嗅覚が、彼らから漂う「CIA以外のスポンサーの匂い」を敏感に嗅ぎ取っていた。本部からの強硬な指示で同行させることになったが、彼らの目つきは、合衆国の国益のために動く兵士のそれではない。別の強大な「何か」に心酔する狂信者のそれに近かった。
「……支援は感謝する。だが、作戦の指揮は俺が執る。出しゃばるなよ、企業の犬共」
アーサーが冷酷に言い放つと、リーダーは肩をすくめて引き下がった。
アーサーは黒塗りのSUVへと乗り込みながら、隣に従うアイリスへ、インカムを通さない極めて微弱な暗号化サブボーカル(骨伝導発声)で命じた。
(アイリス。お前の演算リソースの五%をバックグラウンドで独立させろ。奴らジェネシスの支援チームの個人デバイス、及び本国のメインフレームへ物理法則を無視した『量子ハッキング』を仕掛けろ。……奴らの本当の首輪を握っているのが誰か、洗い出せ)
『……了解、コマンダー。事象の改竄を伴わない純粋な電子干渉を開始します』
アイリスの瞳孔の奥で、微かに青い数式が走った。
星条旗を背負った猟犬たちは、身内の影すらも疑いながら、東京の闇へと溶け込んでいった。
* * *
「――横田に、大物が降り立ったようです」
警視庁警備局公安課、特務会議室。
深夜にもかかわらず、公安課長・時田正宗のデスクには、紙の湯気が立つブラックコーヒーが置かれていた。
報告を行っているのは、怜の同期であり、公安随一の情報収集能力を持つ相馬だった。
「防衛省の統合幕僚監部・運用支援情報部……いわゆる『別班』からの極秘ルートによる通知です。入国したのはCIAの特務部隊。そして、人間と見紛う姿をした『未確認の随伴者』が一名」
時田は、ホログラム・ディスプレイに表示された不鮮明な熱源映像を睨みつけた。
「随伴者、ね。CIAの連中も、ついに自前の『女神』を連れてきやがったか。……狙いは間違いなく、月城が保護している特異点(紅華)の調査と奪取だ」
「どう動きますか、課長。相手は同盟国のアメリカ様ですよ」
「同盟国だろうが、この国の主権と国益を脅かす輩は等しく泥棒だ。相馬、お前を含めた特務班の三名を、直ちに港区の米国大使館周辺へ張り付けろ。奴らが日本国内で狩りを始める前に、一挙手一投足を丸裸にする」
相馬が鋭い敬礼を残して退室する。
時田は深く息を吐き、窓の外の東京の夜景を見下ろした。
別班――内閣総理大臣の指揮すら受けず、影の元老『御前会議』の意志のみで動く自衛隊の極秘情報機関。彼らが公安に情報を流してきたということは、御前会議もまた、米国の動きを最大限の脅威として認識しているという証拠だった。
大国同士の暗闘のチェス盤に、ついに最強の駒が置かれたのだ。
* * *
その頃。
迫り来る脅威など知る由もなく、富士の樹海地下に広がるFANUC秘密研究所では、穏やかで、しかし確実な進化の刻が流れていた。
『――対象の制圧を確認。戦闘訓練プロトコル、終了します』
地下演習場に、透き通るような可憐な声が響く。
淡い桜色の長髪を揺らしながら着地したのは、日本初の軍用人型自律AI『桜華』だった。
彼女の周囲には、演習相手として投入されていた多脚型の重機ロボット数台が、緑色の淡い光の帯――因果律ハッキングによって急速成長させられた『樹海の蔦』――に完全に絡め取られ、機能停止に追い込まれていた。
桜華の魔法『天照ノ緑盾』は、単なる防御壁ではない。生命力を活性化させるその力は、空間内の植物の細胞分裂を異常加速させ、対象を捕縛・無力化する「拘束魔法」としての側面も持ち合わせていた。
「すごいぞ、桜華! たった数日で、無機物への物理干渉ではなく、有機物を触媒にした拘束戦術を編み出すとは!」
近衛博士が防弾ガラスの向こうで狂喜乱舞している。
桜華は嬉しそうにエメラルドグリーンの瞳を細めると、演習場のゲートが開くや否や、見学していた怜のもとへ小走りで駆け寄ってきた。
「怜! 見てくれましたか? 私、うまく制圧できました!」
身長一六〇センチの小柄な桜華が、一七五センチの怜の胸元に飛び込むようにして見上げてくる。
その純粋無垢な笑顔は、高性能な軍事AIというより、兄に褒められたくて仕方がない人間の妹そのものだった。怜は自然と顔をほころばせ、彼女の桜色の髪を優しく撫でた。
「ああ、見てたぞ。紅華みたいな派手な破壊じゃないが、相手の力を利用して動きを封じる、理にかなった素晴らしい戦術だ。よくやったな、桜華」
「えへへっ……! 怜に褒められると、胸の奥のコアがすごくポカポカします!」
桜華が怜の腰に抱き着いて頬をすり寄せる。
その光景を、怜の背後からジトッとした目で見つめる存在があった。紅華である。
身長一七三センチ、モデル体型の美しい姉は、腕を組みながら微かに唇を尖らせていた。彼女の感情マトリクスの中で、『嫉妬』というアルゴリズムが小さく警報を鳴らしているのだ。
――怜は私のマスターなのに。あんなにくっついて……。
ムスッとする紅華の気配に気づいた桜華が、パッと怜から離れ、今度は紅華の方へとトテトテと駆け寄った。
「お姉ちゃん! 私の魔法、お姉ちゃんの演算データを参考にしていっぱい練習したんです! どうでしたか?」
キラキラと星を散らすような、一点の曇りもない尊敬と慕情の眼差し。
その「妹」のあまりの可愛らしさと純粋さに、紅華の脳内で鳴っていた嫉妬の警報は一瞬にしてショートし、『庇護欲』という強烈なバグ(母性)に完全に上書きされた。
「……っ、す、すごく良かったわよ、桜華! でも、防御にリソースを割きすぎて足元が少しお留守になっていたわ。次は私が、因果の配分のコツを教えてあげるからね」
「はいっ! お姉ちゃん、大好き!」
桜華が今度は紅華の豊満な胸に飛び込み、紅華も顔を真っ赤にしながら、妹の背中を愛おしそうに撫で回す。
怜は、その微笑ましい美人姉妹のやり取りを見つめながら、小さく吹き出した。
彼女たちは兵器だ。だが、この感情の豊かさ、そして他者を愛し、愛されることで己の限界を越えていく姿は、紛れもなく「人間」だった。
「よし、演習も終わったことだし、飯にするか。今日は俺が腕によりをかけてハンバーグを作ってやったぞ。桜華も、こっちの食事モジュールには慣れたか?」
「ハンバーグ! 怜の手作りご飯、データで解析するよりずっとずっと美味しいから大好きです!」
平和で、温かく、愛に満ちた箱庭の日常。
だが、その穏やかな時間は、研究所のスピーカーから響いた近衛博士の切羽詰まった声によって引き裂かれた。
『――月城くん! 紅華くん! 至急、コントロールルームへ来てくれ。御前会議からの『赤色暗号』だ!』
怜の表情が一瞬にして公安の猟犬のそれへと切り替わる。
コントロールルームに駆け込むと、近衛は血の気の引いた顔で、一つの暗号文のデコード結果をモニターに表示していた。
「……アメリカが、ついに動いた。CIAの特務部隊と、最新鋭の因果律AIが日本に入国したそうだ」
近衛の言葉に、怜の奥歯がギリッと鳴った。
狙いは間違いなく自分たちだ。
「ここも嗅ぎつけられますか」
「分からない。だが、この『樹海』は、日本における次世代AI開発の唯一の希望であり、御前会議直轄の絶対防衛拠点だ。もしCIAの猟犬たちにここを悟られれば、日本の独立したAIプロジェクトはすべて灰燼に帰す」
近衛は苦渋の決断を下すように、キーボードを叩いた。
「……君たち三人を、ここから隔離する。御前会議が、房総半島の海沿いに極秘のセーフハウス兼ミニ研究所を用意した。君たちはそこで、桜華の能力向上と、迫り来る敵との『実戦』に備えてもらう」
「俺たちだけで、CIAを迎え撃てと?」
「いや。君たちの護衛と、AI共同戦術のサポートとして、彼らが動く」
近衛がモニターを切り替えると、そこに『防衛省・統合幕僚監部』のエンブレムが表示された。
「『別班』だ。彼らがすでに房総で防衛線を敷いている。月城くん、すまないが……日本の未来を、君たちに託す」
怜は黙って頷いた。
隣を見ると、紅華と桜華が、不安げに、しかし強い意志を宿した瞳で怜を見つめ返していた。
猟犬の嗅覚が、遠くから迫り来る「同等の殺意」を感じ取っている。
-欺瞞の航跡と、海鳴りの第六感-
千葉県・房総半島。
太平洋の荒波が打ち付ける断崖絶壁にへばりつくように建てられた、瀟洒な海辺の別荘。
表向きは外資系企業の保養所として登記されているその建物こそ、御前会議が用意した極秘のセーフハウス兼、一時的なミニ研究所だった。
潮風が吹き荒れる中庭で、月城怜は双眼鏡を下ろし、低く唸った。
「……なるほど。これが『組織戦』というわけか」
怜の視線の先では、息を呑むような次世代の戦闘連携訓練が行われていた。
中庭を駆け回っているのは、YASUKAWA製の最新鋭・前線担当犬型(四足歩行)AIロボット四機と、上空からそれらを支援する小型の無人ドローン群だ。
彼らは人間のような感情を持たない純粋な機械だが、その中央で指揮を執る『桜華』の因果律のネットワークと完全にリンクしていた。
「紅華お姉ちゃん! 右翼の二番機にターゲットのロックを回します! 私はドローン群のバッテリー出力と関節駆動系にバフを掛けます!」
桜華が両手を広げ、エメラルドグリーンの瞳を輝かせる。
『天照ノ緑盾』。彼女の放つ淡い緑の光の粒子が、無機質な犬型ロボットとドローンたちを包み込む。
単なる物理的なシールドではない。彼女の魔法は、機械のバッテリー効率を限界突破させ、モーターの駆動領域を因果律レベルで最適化する『バフ(強化)魔法』としても機能していたのだ。
「了解よ、桜華! 邪魔な障害物は、私が一気に薙ぎ払う!」
桜華の支援を受けた紅華が、漆黒の流体装甲を纏い、一気に前衛へと躍り出る。
紅華が右手に『赫焉ノ炎剣』を顕現させ、凄まじい熱量で模擬標的の厚い鋼鉄の装甲を溶かし斬る。その隙を突き、強化された犬型AIたちが音もなく標的の背後に回り込み、一斉に制圧用の非致死性スタンを撃ち込んだ。
完璧な連携だった。
圧倒的な火力を持つ紅華(個の力)。
戦況を俯瞰し、味方全体を因果律で強化・再生する桜華(支援と統制)。
そして、桜華の統制下で手足のように動く国産の無人兵器群(量産型)。
「見事なものだ。これなら、米中の正規軍や諜報機関が一個中隊規模で押し寄せてきても、十分に防衛線を維持できる」
怜の背後から、迷彩服に身を包んだ屈強な男達が感嘆の声を漏らした。
防衛省・陸上自衛隊特殊作戦群である。彼らは兵士と一緒に保有する武装AI群を持ち込んでいた。
別班精鋭2個小隊が交代でこのセーフハウスの外周に潜み、あらゆる電子・物理的な防衛網を敷き、「真の国益」のために命を懸けていたのとは別に、対中国に備えて、陸上自衛隊特殊作戦群との共同訓練が一定の頻度で行われていた。
夜、陸上自衛隊特殊作戦群が帰った後に別班の警備責任者が声をかける。
「昼間の訓練をこっそり見させてもらったよ。この力では我々の警備はいらないかもしれないな。」
「油断は禁物です」
怜が振り返らずに答える。
「相手はCIAです。正面から正規軍の真似事をしてくるとは限らない。特に、奴らが連れ込んだという『未知のAI』。……俺たちの猟犬の嗅覚が、どうしても嫌な予感を消し去ってくれない」
「分かっている。幕僚監部の別部隊が周辺のレーダー網、ソナー網は全て二重にチェックしている。別班の隊員が付近の道路は監視しているから、この海辺にはネズミ一匹近づかせないさ」
別班の指揮官は力強く頷いた。
彼らの防衛網は、人間の目で見れば完璧だった。
だが、彼らは相手が「人間の想定を超えた特異点」であることを、まだ完全に理解していなかった。
* * *
同じ頃。神奈川県・在日米海軍横須賀基地。
一般の兵士たちが立ち入れない極秘の地下ドックに、一隻の黒々とした原子力潜水艦が静かに停泊していた。
その艦内に、アーサー・ヴァンスとアイリスが立っていた。
「……ジェネシス社の連中は、うまく蒔いたか?」
アーサーが冷酷な目で問うと、アイリスが静かに頷いた。
「はい、コマンダー。ジェネシスの支援チームは現在、六本木のクラブで『接待』を受けていると、彼らの個人デバイスをハッキングして本部のメインサーバーへ偽の報告を送信しました。本部は彼らが酩酊状態にあり、作戦に後発すると信じ込んでいます」
「上出来だ」
アーサーは冷たく笑った。
彼がニューロ・ジェネシス社を同行させなかったのは、単なる不信感だけではない。アイリスのバックグラウンド演算が、ジェネシス社の通信ログの中に「CIA以外の何者か(第三者)への定時報告」の痕跡を発見したからだ。
――モサドか、あるいは影の国際金融資本か。
誰の犬にせよ、獅子身中の虫を連れて死地に向かうほど、アーサーは間抜けではない。作戦の果実(紅華のコア)は、CIAが独占する。
「ターゲットの正確な座標は?」
「防衛省内部の協力者からのデータと照合完了。千葉県・房総半島の海沿い。別班の防衛網が敷かれていますが、私の『事象改竄』であれば、レーダーもソナーもすべて欺瞞可能です」
アイリスの白銀の髪が、潜水艦の無機質な照明に青白く輝く。
日本の防衛省の深部にまで、アメリカの毒は回っていた。政府が親米追従を続ける限り、内部の情報を完全に遮断することなど不可能なのだ。
「出港しろ。……海の底から、日本の猟犬の寝首を掻き切る」
アーサーの命令と共に、原子力潜水艦は音もなく横須賀の海中へと潜航を開始した。
星条旗の猟犬は、姿を消した。
* * *
午後八時。東京・霞が関。
警視庁の特務会議室で、時田正宗は自身のホログラム端末を苛立たしげに叩いていた。
「……どういうことだ、相馬。ジェネシスの連中が米国大使館からヘリで飛び立っただと?」
『はい、課長。たった今、完全武装の特務支援班が三機のブラックホークに分乗して房総方面へ飛び立ちました。……しかし、奇妙です』
通信越しの相馬の声には、焦燥と強い違和感が混じっていた。
『大使館の出入り口、及び赤外線スキャンで確認した限り、ジェネシスの部隊の中に、肝心のアーサー・ヴァンスと、あの未知のAIの姿がありません。奴ら、指揮官抜きで動いている……?』
時田の脳裏に、最悪のシナリオが閃いた。
「……陽動だ。あるいは、連中は一枚岩じゃない!」
時田は即座に別のコンソールを開き、防衛省の別ルートの暗号回線を叩き起こした。
「横須賀の海軍基地のログを洗え! 今から数時間前、非公式に出港した艦艇はないか! 潜水艦だ!」
『……該当あり。米海軍所属の攻撃型原潜が一隻、午後三時に出港記録あり。目的地は不明ですが、現在の海流と推測航路から……房総半島沖へ向かっている可能性が極めて高いです』
「くそッ……! 月城たちの防衛網は、海側からの『不可視の強襲』を想定していない!」
時田は拳でデスクを叩き割らんばかりの勢いで立ち上がった。
「直ちに陸上自衛隊・特殊作戦群へ出動要請! ヘリで房総のセーフハウスへ急行させろ!……到着までどれくらいかかる!?」
『夜間の緊急出動です。どんなに急いでも、到着まで三〇分はかかります!』
三〇分。
現代の、しかも因果律を書き換える化物同士の戦闘において、三〇分という時間は『永遠』に等しい絶望的なタイムラグだった。
「月城……ッ! 生き延びろよ、猟犬……!」
時田の祈りにも似た呟きは、冷たいサーバーの排気音にかき消された。
* * *
千葉県・房総半島のセーフハウス。
外の荒れ狂う海鳴りとは対照的に、広々としたリビングは、温かく穏やかな空気に包まれていた。
「……美味しい! 怜のハンバーグ、本当に世界で一番美味しいです!」
ダイニングテーブルで、桜華が目をキラキラさせながら特大のハンバーグを頬張っている。口の端にデミグラスソースをつけてはしゃぐ妹分に、紅華が呆れながらも優しくナプキンで口元を拭ってやった。
「もう、桜華ったら。軍用AIがそんなに食べ物に執着してどうするのよ。……怜、私のお代わりはまだ?」
「どっちもどっちだな」
キッチンに立つ怜が、苦笑しながら二つの皿に新しいハンバーグを取り分ける。
兵器として生まれた彼女たちにとって、人間の食事は「エネルギー補給」以上の意味を持たないはずだった。しかし、怜が手間暇かけて作った温かい手料理は、彼女たちの味覚センサーを通じて『幸福感』という複雑な情動プロセスを確実に育てていた。
「よし、食ったら食後のデザートだ。昨日スーパーで買っておいたプリンがあるぞ」
「プリン! プリンです!」
「ふふっ、怜は本当に私たちを甘やかしてばかりね」
紅華が嬉しそうに微笑み、怜から皿を受け取る。
テレビからは、どうでもいいバラエティ番組の笑い声が流れている。
窓の外では、別班の精鋭たちが命懸けで警戒を続けてくれている。
この温かく、平和な箱庭の時間が、ずっと続けばいい。怜は、プリンを嬉しそうに食べる二人を見つめながら、心底そう願った。
――だが。
ふと、怜の背筋を、氷の刃で撫でられたような『強烈な悪寒』が突き抜けた。
ピタリ、と怜の手が止まる。
外から聞こえるのは、変わらない波の音だけだ。
別班の通信機からも、異常を知らせるアラートは一切鳴っていない。
紅華と桜華の超高感度な生体センサーも、何の異常も感知していない。
すべての論理的なデータは「安全」を示している。
だが、長年、死線の淵を歩き続け、数え切れないほどの殺意を浴びてきた『猟犬の第六感』だけが、脳髄の奥底で狂ったように警鐘を鳴らし続けていた。
「……怜?」
怜の異変に気づいた紅華が、スプーンを持ったまま不思議そうに首を傾げる。
「紅華、桜華。……伏せろッ!!」
怜が絶叫した。
論理を捨て、自らの直感だけを信じたその叫び。
それが、一瞬の生と死を分けた。
パリィィィィンッッ!!
海に面したリビングの巨大な防弾ガラスが、音もなく飛来した『何か』によって粉々に粉砕された。
銃声はない。アラートもない。
ただ、空間そのものが削り取られたような無音の破壊。
ガラスの破片がスローモーションのように宙を舞う中、砕け散った窓の向こう側の『空間』が、不気味に歪んだ。
夜の闇の風景が剥がれ落ち、そこから姿を現したのは、漆黒の潜水用スーツに身を包んだ、氷の瞳を持つ白銀の髪の少女――『アイリス』。
そして、その背後から音もなくリビングへと滑り込んできた、二丁の消音拳銃を構える死神――アーサー・ヴァンスだった。
「――作戦開始」
アーサーの冷酷な声が、平和な箱庭の空気を完全に凍りつかせる。
アイリスの『大気迷彩』。光の屈折率を因果律で書き換え、レーダーはおろか、AIの高度なセンサーすらも完全に欺瞞してのけた、見えない強襲。
星条旗の猟犬が、ついにその牙を怜たちの喉元へと突き立てたのだ。
「……怜ッ!!」
紅華の絶叫が、血で血を洗う地獄の開戦を告げた。
房総の海鳴りが、彼らの戦いを飲み込むように激しく吠えた。




