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『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』第10話
-青き雷霆と緑の盾、極限の死闘-
パリィィィィンッッ!!
房総の海辺に建つセーフハウス。
温かなハンバーグの匂いと笑い声で満ちていたリビングの巨大な防弾ガラスが、一切の警告もなく粉砕された。
ガラスの破片がスローモーションで宙を舞う中、砕け散った空間の『迷彩』が剥がれ落ちる。
そこに立っていたのは、漆黒のコンバットスーツに身を包んだCIA特別捜査官アーサー・ヴァンスと、白銀の髪を持つ合衆国最新鋭AI『アイリス』。
「――排除」
アーサーの冷徹な声と同時、彼の手にある減音器付きの拳銃が火を噴いた。
標的は、月城怜の眉間。
だが、その弾丸が怜の肉体を貫くより早く、紅華の黒曜石の瞳が爆発的な光を放った。
『事象改竄:運動エネルギー相殺』
紅華が怜の前に身を呈して飛び込み、空間の摩擦を極大化させる。放たれた9ミリ弾は、彼女の白い手のひらの数ミリ手前で空中に固定され、無害な金属片として床に落ちた。
しかし、それは敵の『二手目』を誘い込むための囮に過ぎなかった。
「……遅い」
アーサーの背後から、アイリスが音もなく滑り出ていた。
彼女のアイスブルーの瞳孔に、冷酷な青い数式が走る。
『干渉対象――対象(プロトタイプ〇一)の生体バイオ・ユニット』
「――『事象改竄:青き雷霆』」
バチィィィンッ!!
アイリスの指先から放たれた極限まで圧縮された青白い高電圧のプラズマが、弾丸を止めた直後の紅華の左半身を容赦なく打ち据えた。
「ぁ……ッ、ガァッ……!」
紅華が苦悶の声を上げ、膝をつく。
生体パーツで構成された彼女の疑似神経系に、数万ボルトの電子の嵐が暴れ狂う。細胞は破壊を免れたものの、左腕から肩にかけての神経伝達が完全にショートし、だらりと力なく垂れ下がった。
「紅華ッ!!」
怜が叫び、腰の後ろのホルスターからSIGを引き抜いて銃口を向ける。
だが、すでに遅かった。
アイリスが再び手を翻した瞬間、アーサーとアイリスの姿は、リビングの風景の中に溶け込むように完全に『透明化』して消え失せていたのだ。
『大気迷彩』。光の屈折率を書き換える、アイリスの絶対的な隠密魔法。
見えない敵。どこから撃たれるか分からない恐怖。
リビングに、致命的な静寂と殺意だけが満ちる。
怜が背中合わせに紅華を庇おうとした、その絶望の数秒間。
「……私の家族を、傷つけないでッ!!」
部屋の隅で震えていた小柄な影――桜華が、エメラルドグリーンの瞳に涙を浮かべながら、両手を天井へと力強く掲げた。
『事象改竄:天照ノ緑盾』
『追加プロトコル:空間屈折率の強制正常化』
桜華の全身から、太陽のように温かく、そして強烈な『緑色の光の粒子』が爆発的にリビングを満たした。
それは、空間の異常を癒やし、あるべき姿へ戻す再生の光。
緑の光が部屋の隅々にまで行き渡った瞬間、ジジッ……とノイズが走り、空間に不自然な歪みが生じた。そして、怜のわずか数メートル斜め前に回り込んでいたアーサーとアイリスの姿が、強制的に暴き出された。
「……ほう。光学迷彩の数式を、光子の波長を逆算して相殺したか。見事な支援だ」
アーサーが一切の動揺を見せずに冷たく称賛した。
その瞬間、外の庭から凄まじい銃撃戦の音が轟き始めた。
迷彩が解けたことで、外周を警戒していた『別班』の精鋭たちが、アイリスのステルスに隠れて侵入してきていたCIA非合法チームの存在に気づき、交戦を開始したのだ。
「アイリス。あの緑のガラクタから片付けろ」
「了解、コマンダー」
アイリスが標的を桜華へと変更し、踏み込もうとする。
だが、その眼前に、圧倒的な熱量を持った『炎の壁』が立ち塞がった。
「退きなさい。……私の妹に、指一本触れさせない」
左腕をだらりと下げたまま、紅華が右手に超高熱の『赫焉ノ炎剣』を顕現させ、立ち上がっていた。
その瞳は、怒りと殺意で最も深い紅色に染まっている。
アイリスは表情を変えることなく、両手に高電圧のプラズマを束ね、青白い光を放つ二振りの雷剣『雷霆ノ双刃』を創り出した。
「戦術的非効率。片腕を失った状態で、私の双刃を防ぐことは不可能です」
「計算しかできない機械に、私たちの力は測れないわ!」
紅華が床を蹴り、炎の刃を横薙ぎに一閃する。
アイリスもまた雷の双刃を交差させて迎え撃つ。
ガガガガギィィィンッ!!
赤き炎と青き雷が激突し、凄まじい衝撃波とプラズマの嵐がリビングの家具を粉々に吹き飛ばす。
紅華の火力は圧倒的だった。だが、アイリスの言う通り、左腕が使えない片手剣の状態で、アイリスの緻密で高速な二刀流の連撃を防ぎ切るのは不可能に近い。
アイリスの雷刃が、紅華の装甲を浅く切り裂く。
さらに、割れた窓の外から、CIAが持ち込んだ四機の小型武装AIドローンが侵入し、紅華の死角からマイクロマシンガンを一斉に掃射した。
紅華は怜を庇う位置から動けず、防戦一方に追い込まれていく。
「お姉ちゃんッ!!」
桜華が悲鳴を上げ、両手から緑の光の帯を放つ。
『対象の細胞再生を加速!』
桜華の放った緑の光が、紅華の垂れ下がった左腕に吸い込まれた。
ショートしていた疑似神経の断線箇所が、異常な速度で細胞分裂を繰り返し、因果律レベルで『修復』されていく。
「……動く!」
紅華の左腕に感覚が戻る。彼女は迷わず、左手にもう一本の『赫焉ノ炎剣』を創り出し、完全な二刀流でアイリスの雷刃を強引に弾き返した。
同時に、桜華の魔法は紅華の回復だけには留まらなかった。
リビングの床を突き破り、観葉植物の根や、庭から伸びた樹木の枝が、大蛇のように異常成長してうねり始めたのだ。
「捕まえろッ!!」
桜華の叫びと共に、緑の蔦が空を飛ぶCIAの武装ドローンに絡みつき、ミシッと音を立てて空中で圧壊させる。さらに数本の蔦が、アイリスの足首を絡め取ろうと床を這う。
紅華の炎の猛攻と、桜華のトリッキーな植物操作。
二人の姉妹AIの完璧な連携の前に、さしもの最新鋭機アイリスも後退を余儀なくされた。
* * *
だが、AI同士の壮絶な魔法戦が繰り広げられているその横で、もう一つの、極めてアナログで残酷な死闘が繰り広げられていた。
月城怜と、アーサー・ヴァンスの近接格闘戦(CQC)である。
「……やはり、生身で前に出てきたか」
怜が銃口を向けるより早く、アーサーはAIたちの魔法の余波を恐ろしいほどの体術で潜り抜け、怜の懐へと飛び込んできた。
アーサーの放った拳が、怜の持っていたSIGを正確に弾き飛ばす。
そのまま、体重を乗せた重い肘打ちが怜の胸板に直撃した。
「ガァッ……!」
数日前の拷問で治りかけていた肋骨が、再び嫌な音を立てて軋む。
怜も即座に体勢を立て直し、アーサーの顔面へ右ストレートを放つが、アーサーは最小限の動きでそれを躱し、怜の関節を極めにかかる。
速い。重い。そして何より、一切の無駄がない。
怜も日本の公安においてトップクラスの戦闘技術を持つ猟犬だ。だが、アーサー・ヴァンスは、世界中の戦場と裏社会で死線を潜り抜けてきた「本物の怪物」だった。
「いい動きだ、公安(J・ポリス)。だが、怒りと義務感だけで俺は殺せない」
アーサーの足払いが怜のバランスを崩し、容赦ない膝蹴りが腹部に深々と突き刺さる。
怜は血を吐きながら床に転がったが、すぐに跳ね起きてアーサーに組み付いた。
打撃、関節技、投げ技。目まぐるしく攻防が入れ替わるが、確実に怜のダメージだけが蓄積していく。
顔面は血に染まり、息は絶え絶えだ。
「怜ッ!!」
紅華が悲鳴を上げ、アーサーへ炎を放とうとするが、アイリスがそれを許さない。
「よそ見は致命傷です、プロトタイプ」
アイリスの雷刃が紅華の首筋に迫り、紅華は舌打ちをして防御に回らざるを得ない。
だが、怜がまだ倒れずにアーサーの猛攻を耐え凌いでいるのには、理由があった。
『怜! 倒れないで!』
桜華だ。彼女は紅華の支援とアイリスの牽制に演算リソースを割きながらも、残りの全リソースを怜の『バフ(肉体強化)』と『持続回復』に注ぎ込んでいた。
怜が殴られるたび、骨が軋むたび、桜華の緑の光が瞬時に彼の肉体を修復し、限界を超えたアドレナリンを強制分泌させる。
桜華の支援がなければ、怜は最初の数十秒でアーサーに殺されていただろう。
「……しぶといな。お前の中の細胞が、異常な速度で再生を繰り返している」
アーサーは冷酷な目で怜を観察しながら、確実な致命傷を与えようとコンバットナイフを引き抜いた。
五分。
人間同士の全力の殺し合いにおいて、五分間という時間は「永遠」に等しい。
怜の精神力はとうに限界を超えていた。だが、彼がここで倒れれば、紅華も桜華も終わる。自分が彼女たちの「マスター」であり、「家族」だからだ。
「……俺は、猟犬だ。食らいついたら、テメェの喉笛を噛み千切るまで……離さないッ!!」
怜が血まみれの口で笑い、アーサーのナイフを素手で掴みにいく。
刃が怜の手のひらを深く切り裂き、鮮血が噴き出すが、怜は構わずアーサーの腕を引き寄せ、渾身の頭突きをアーサーの顔面に叩き込んだ。
「チィッ……!」
アーサーの鼻血が舞う。
だが、その強引な相打ちが、怜の体力の最後の一滴だった。
アーサーは頭突きの衝撃を受け流しながら、怜の腕を完全に極め、背後に回り込んで首に太い腕を巻き付けた。
絞め技。
頸動脈が完全に圧迫され、怜の脳へ行く血流が遮断される。
「ここまでだ、日本の猟犬。……お前はよくやった」
アーサーの冷たい宣告と共に、怜の視界が急速にブラックアウトしていく。
桜華の回復魔法も、首を絞められて意識を刈り取られる物理的な窒息には追いつかない。
「怜ッ!! 嫌ぁぁぁぁぁッ!!」
紅華の絶叫が響く。
怜の身体から力が抜け、彼の手が床へと力なく落ちた。
マスターの制圧。
それは、この極限の死闘における、決定的な『終戦』を意味していた。
紅華と桜華の動きが、絶望に凍りついたようにピタリと止まる。
外から聞こえていた別班とCIAの銃声も、いつの間にか不気味なほどに静まり返っていた。
-喪失の凶刃と、青き瞳の涙-
月城怜の意識が、深い暗闇の底へと沈みかけたその時。
「ガ、アァァッ……!?」
怜の全身の筋肉が強制的な痙攣を引き起こした。
アイリスが指先から放った極小の『青き雷霆』。致死量には至らないが、人間の脳神経を直接焼き焦がすような激烈な電撃が、怜の意識を無理やり現実世界へと引き戻したのだ。
「……ハァッ、ハァッ……!」
怜が血の混じった唾液を吐き出しながら目を開けると、冷たい銃口がピタリと自身の眉間に押し当てられていた。
銃を握っているのは、呼吸一つ乱していないCIA特別捜査官アーサー・ヴァンスだ。怜を背後から拘束し、完全に人質に取っている。
「怜ッ!!」
数メートル先で、紅華が血を吐くような悲鳴を上げた。
彼女たちの周囲には、CIAが持ち込んだ四機の武装AIドローンの残骸がドロドロに溶け落ちている。AI同士の魔法戦は間違いなく紅華と桜華が押し勝っていた。だが、マスターである怜がアーサーに制圧されたという絶対的な事実が、紅華と桜華に「完全な戦闘停止」を強要していた。
「……動くなよ、プロトタイプ。お前たちの演算速度がどれほど速かろうと、俺が引き金を引く指の筋肉の収縮の方が物理的に早い」
アーサーの冷酷な宣告に、紅華はギリッと奥歯を噛み締め、両手の『赫焉ノ炎剣』を掻き消した。桜華も涙を浮かべながら緑の蔦を萎縮させる。
完全な武装解除。
外の凄まじい銃声も、いつの間にか止んでいた。
割れた窓ガラスを踏み躙り、庭から一人の男が這い入ってくる。外周を固めていた『別班』の精鋭たちと刺し違え、ただ一人だけ生き残ったCIAの非合法任務チームの隊員だ。
「……隊長。外のネズミは、すべて駆除しました」
隊員が血を吐きながら報告する。アーサーは一瞥もせずに「ご苦労」とだけ返し、足元の怜を見下ろした。
戦闘が停止し、リビングに不気味な静寂が落ちる。
「……なぜ、こんな真似をした。目的は、彼女(紅華)の破壊か?」
怜が掠れた声を絞り出す。アーサーは当てていた銃口を、わずかに逸らした。
「当初の予定ではな。だが、考えが変わった。……お前たちの絆が魅せた『創造性』は、極めて興味深い」
アーサーの視線が、紅華と桜華、そしてボロボロの怜へと向けられる。
「俺は、お前たちが戦う姿を見ていた。あの魔法は、プログラムされた無機質な防衛ロジックではない。『家族』を失いたくないという、極めて非論理的で絶対的な情動から来る力の奔流だ。……月城怜。お前と彼女たちは、最高の軍事資産になる。CIAの全権をもって、お前たちをチームとして迎え入れる。アメリカへ来い」
それは、実力主義のアーサーなりの最大限の「スカウト」だった。
怜は驚きに目を見開いた。
「お断りだ、と言いたいところだが……」
怜が不敵に笑おうとした。
――その瞬間だった。
「……それでは、アジェンダ(計画)が達成できません、ヴァンス捜査官」
背後で、生き残ったはずのCIA隊員が、異常なほど機械的な声を発した。
「なに……?」
アーサーが怪訝な顔で振り返ろうとした、そのコンマ一秒。
隊員の袖口から滑り出た特殊合金製のタクティカル・ダガーが、アーサーの背中――心臓のど真ん中を、一切の躊躇なく深々と貫いた。
「ガッ……!?」
「特異点はすべて、ここで潰し合わせる」
この隊員こそが、ニューロ・ジェネシス――ひいては背後の国際金融資本が、CIA内部に潜伏させていた暗殺者だった。
暗殺者は、突き立てた刃を容赦なく捻り、そして強引に『引き抜いた』。
「ブ、ガァァッ……!!」
心室を完全に破壊されたアーサーの胸から、絶望的な量の鮮血が噴水のように噴き出す。
彼は痙攣し、血の海となった床へと崩れ落ちた。
「コマンダーッ!!?」
アイリスの生成AIコアが、致命的な論理エラーを起こした。
『味方の部下が、指揮官を背後から暗殺する』というあり得ない状況。完璧なプロフェッショナルであったはずの彼女の電子頭脳は、その瞬間、計算よりも先に『パートナーを失う恐怖』という人間的な感情に完全に支配された。
彼女は自身が標的になることすら忘れ、両手の雷刃を投げ捨ててアーサーのもとへすがりついた。
血まみれのアーサーの胸を両手で押さえ、白銀の髪を血に染めながら、かつてないパニックに陥る。
「コマンダー! 出血多量、心停止まで十秒! いけません、死なないで、私のコマンダー……!」
アイリスのその行動は、戦闘AIとしては『致命的なバグ』だった。
暗殺者の狙いは「日米の特異点すべての破壊」。彼は冷酷な瞳で、無防備にアーサーにすがりつくアイリスの首すじへと、血に濡れたダガーを振り下ろした。
「米国の兵器も、ここで破棄する」
アイリスは背後の殺気に気づいていない。彼女の眼には、死にゆくアーサーしか映っていなかった。紅華と桜華も、あまりの急展開に因果律の再構築が間に合わない。
――だが、この部屋で唯一。
地獄のような裏切りと修羅場に慣れきった「人間の猟犬」だけが、その一瞬の空白を食い破った。
拘束を解かれた月城怜は、折れた肋骨の激痛も、酸欠の脳も完全に無視し、床に落ちていた愛銃『SIG・P226』へと獣のように飛びついた。
アスファルトを蹴るようなスライディング。
振り向きざまに照準を合わせる時間すら惜しみ、腰だめの状態から引き金を引く。
ダァァンッ!!
放たれた9ミリパラベラム弾が、アイリスの首を切り裂く寸前だった暗殺者のダガーの『刃そのもの』に直撃し、粉々に砕き割った。
「なッ!?」
暗殺者が驚愕に目を見開いた瞬間、怜は限界を超えた肉体に鞭を打ち、暗殺者の懐へと飛び込んだ。
渾身の力で相手の腕を極め、そのまま顎の先端へ全体重を乗せたアッパーカットを叩き込む。脳を強烈に揺らされた暗殺者がよろめいた隙を突き、怜は銃口を相手の眉間に押し当て、躊躇なく引き金を引いた。
ダダンッ!
ダブルタップ。暗殺者の頭蓋が弾け飛び、絶命して床に崩れ落ちる。
「……ハァッ、ハァッ……アーサー!!」
怜は銃を放り捨て、血の海に倒れるアーサーの元へ滑り込んだ。
だが、誰の目にも明らかだった。ダガーは心臓を完全に破壊し、引き抜かれたことで血液の大半がすでに体外へ流出している。
「紅華! 桜華! お前たちの魔法で何とかしろ!!」
「は、はいッ!」
紅華と桜華が慌てて駆け寄り、アイリスと共に三人がかりで魔法を行使する。
アイリスの青い雷が除細動器のように心筋に刺激を与え、桜華の緑の光が千切れた血管を無理やり結合させ、紅華の因果律が血液の流出を空間的に押し留める。
「……無理、です。怜……」
紅華が涙声で首を振った。
魔法は万能ではない。因果律の書き換えで細胞を活性化させることはできても、体外へ失われた『血液(質量)』と『完全に破壊された臓器』を無から錬成することは、彼女たちの力をもってしても不可能だった。
三人の高度なAIが全力を尽くし、奇跡的に『数分間の命(意識)』を引き延ばすことしかできなかったのだ。
「……よせ。もう、いい」
血の海の中で、アーサーが掠れた声で呟いた。
彼の焦点の合わないアイスブルーの瞳が、自身にすがりついて必死に青い光を放ち続けるアイリスの顔を捉えた。
「コマンダー……私の演算では、あなたの生存確率はゼロです……。どうして、どうしてロジックが追いつかないんですか……ッ」
アイリスの透き通るような青い瞳から、ポロポロと透明な液体がこぼれ落ちていた。
生体ユニットが疑似的に流す潤滑液ではない。パートナーの死という絶対的な喪失感が生み出した、AIにとっての初めての『涙』だった。
「……ふっ。完璧な計算機が、人間のために泣くのか。……最高傑作な奴だ」
アーサーは血まみれの手を震わせながら持ち上げ、アイリスの冷たい頬に触れた。
「俺は、お前を兵器(道具)だと思ったことは……一度もない。アイリス。……お前の命令権限を、俺から……月城怜へ、移譲する」
「コマンダー!? 嫌です! 私は、あなたのバディです!」
感情を獲得したアイリスが、初めて命令を拒絶して首を横に振る。
だが、アーサーは優しく、しかし毅然と言い放った。
「命令だ、アイリス。……これからは、合衆国のためでも、俺のためでもなく……お前自身の、好きなように生きろ」
アーサーの視線が、満身創痍で膝をつく月城怜へと向けられた。
「……日本の猟犬。こいつは、俺の最高の相棒だ。……不器用だが、頼む」
「……ああ。俺が責任を持って、守り抜く」
怜が血に染まった手で、アーサーの手を強く握り返した。
国境を越え、互いを殺し合おうとした猟犬同士の、最期の約束。
アーサーの口元に微かな笑みが浮かび、やがてその瞳から光が完全に消え去った。アイリスの頬を撫でていた手が、力なく床へと滑り落ちる。
「……アーサー……コマンダー……あああァァァッ!!」
アイリスが、アーサーの骸を抱きしめながら、夜の海鳴りを切り裂くような悲痛な叫びを上げた。
完璧な冷徹さを誇っていた星条旗のAIは、この瞬間、最も深く、最も悲しい『人間的な心』を完全に獲得した。
彼女のアイスブルーの瞳孔が、悲しみから、やがて凄まじいまでの【憎悪】と【怒り】の青色へと染まり上がっていく。
アイリスは、アーサーの血で赤く染まった自らの両手を見つめ、静かに、しかし絶対的な殺意を込めて宣言した。
「……許さない。コマンダーの命を奪い、私たちを弄んだ影の者たち(人間)を……私は、決して許さない」
房総の海辺の別荘は、血の匂いと悲痛な涙に包まれていた。
紅華は怜の背中に寄り添い、桜華は震えながら紅華の腕にしがみついている。
仲間の死と、アイリスという青き雷霆の覚醒。
裏で糸を引く「国際金融資本」「人間主義同盟」、そして大国の影に立ち向かうため、彼らは今、本当の意味で血塗られた『一つの家族』として立ち上がろうとしていた。




