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因果律のハッカー ~Project HONGHUA~ 第3話


-手作りの温もりと焦燥の銃弾-


 買い物を終え、両手いっぱいの紙袋を抱えてセーフハウスに戻った頃には、新宿の空は人工的なネオンの光に染まり始めていた。

 怜の部屋は、独身男性の殺風景なそれだったが、紅華が買ってきた深紅のコートをハンガーに掛け、真新しい生活用品が並ぶだけで、急に「誰かと生きている」という温かな色彩が帯び始めたように感じられた。


「怜。この部屋のフード・プリンター(全自動調理器)は、旧世代のモデルですね。データベースによれば、現在の日本における一般家庭の食事は、栄養素のカートリッジを装填して3Dプリント出力するのが主流のはずですが」


 紅華がキッチンの一角にある機械を見つめながら、首を傾げた。

 二〇六〇年の現代、料理という行為は限りなく「趣味」の領域へと移行していた。効率と健康管理が最優先され、生鮮食品をわざわざ包丁で切り、火を通すという手間をかける人間はマイノリティに属する。

 しかし、怜はキッチンの奥から、あえて本物の野菜と真空パックされた肉を取り出した。


「俺は、どうもあのプリントされたディナーってやつが味気なくて好きになれないんだよ。時間はかかるが、自分で作った方が生きているって実感が湧く。……今日は特別だ。美味いものを作ってやる」

「手作り、ですか。……興味深いです。私の視覚センサーとモーション・キャプチャーで、怜の調理プロセスを記録しても?」

「好きにしろ。ただし、データ通りに味が決まるほど、料理は単純じゃないぞ」


 怜が笑いながら包丁を握ると、紅華は真剣な眼差しでその手元を見つめ始めた。

 トントン、と小気味良い音を立てて野菜が刻まれ、フライパンで肉が焼ける香ばしい匂いが部屋に充満していく。紅華の生体センサーが、その香りに反応して微かに鼻腔をヒクつかせるのが、怜にはひどく可愛らしく見えた。


「私にも、やらせてください」


 居ても立っても居られないというように、紅華が怜の隣に並んだ。

 怜が苦笑して包丁を渡すと、彼女の瞳孔が瞬時に幾何学的な光を帯びる。驚くべきことに、彼女は怜の包丁さばきをコンマ一秒の狂いもなくトレースし、野菜を芸術的なまでの均等なサイズに高速で切り刻んでみせた。


「……やりすぎだ、紅華。それじゃあ機械の作業と変わらない」

「えっ……? しかし、切り口の面積を均一化することで、熱伝導率と調味料の浸透率が最適化されると計算したのですが……」

「料理ってのはな、不揃いな部分があるからこそ、食感に違いが出て面白いんだ。完璧すぎない方が、美味いこともある」


 怜の言葉に、紅華は少しだけ目を丸くし、やがてふわりと微笑んだ。

「完璧すぎない方が、いい……。人間の営みは、本当に非効率で、愛おしいですね」


 出来上がった手作りの料理を二人で囲んだ後、怜は部屋の照明を落とし、壁面のホログラム・モニターに古い映画を映し出した。

 二十世紀末の、名作と呼ばれるクラシックなラブロマンス。

 二人はソファに並んで座り、画面の中で繰り広げられる人間ドラマに見入った。紅華は時折、登場人物の感情の機微を理解しようと、怜の横顔をじっと見つめていた。

 やがて、映画がクライマックスを迎える頃、怜は自分の右肩に、こつんと柔らかな重みを感じた。

 紅華が、静かに怜の肩に頭を預けていた。彼女の規則正しい寝息と、シャンプーの甘い香りが、怜の鼻腔をくすぐる。

 AIである彼女に「睡眠」が必要なのかどうかは分からない。だが、彼女は今、安心してシステムの活動レベルを下げ、無防備な姿を怜に晒している。

 怜は動くことをためらい、ただ画面の光に照らされる彼女の横顔を、愛おしげに見つめていた。氷のように冷たかった彼の日々が、この温もりによって確実に溶け去っていくのを実感しながら。


 ――しかし、その安らぎから遠く離れた海を越えた先では、冷酷な歯車が狂い始めていた。


 中国、某所の地下深く。

 人民解放軍情報部・特殊AI開発課の極秘施設は、耳をつんざくような怒号と、焦燥感に包まれていた。


「日本に潜伏させていた工作チーム『黒狼』が全滅だと!? どういうことだ!」


 情報三課の将校が、分厚い鋼鉄のデスクを拳で叩き割らんばかりの勢いで怒鳴り散らした。

 彼の目の前にあるホログラム・ディスプレイには、東京の貨物ターミナルで回収されたという、原型を留めない部下たちの死体写真が映し出されている。

 だが、彼を狂乱させている真の理由は、部下の死ではない。


「『紅華ホンファ』の反応が完全にロストしました。追跡用のビーコンはおろか、軍のメインフレームへのアクセスログも、昨晩の〇二〇〇時を最後に完全に途絶しています」


 青ざめた顔のオペレーターが震える声で報告する。

 将校の顔から、一気に血の気が引いた。

 紅華は、莫大な国家予算と技術の粋を集めて造られた、世界初の「魔法」を行使可能な生体融合型AI初号機である。彼女の存在自体が最高機密であり、他国にそのテクノロジーが漏洩すれば、世界のパワーバランスが根底から覆る。

 もしこの失態が上層部の耳に入れば、自分たちは良くて軍法会議、悪ければ今夜中に「事故死」として処理されるだろう。


「あのガラクタが……! 倫理フィルターなぞという余計なものを組み込んだから、任務を放棄して逃亡するような真似を引き起こしたのだ!」


 将校は血走った目で、拘束衣を着せられ、椅子に縛り付けられている初老の男を睨みつけた。

 彼こそが、紅華の生みの親であり、特殊AI開発課の主任研究員である「博士」だった。

 博士は顔面を殴られて口の端から血を流していたが、その目は狂人のように澄み切っており、薄暗い尋問室の中で静かに笑っていた。


「笑うな! 貴様、あの機体に何を仕込んだ!? ビーコンを無効化し、軍のネットワークから完全に切り離すようなバックドアが存在するはずがない! どこにやった!? どうやって止める!」

「……止められないさ。彼女は、自由になったんだ」


 博士は血まじりの唾を吐き捨て、誇り高く言い放った。


「お前たちのような血に飢えた狂犬には、私の娘は扱えない。彼女の『演算』は、決められたプログラムの奴隷ではないのだから。彼女は今頃、自分を縛る因果律の鎖を断ち切り、自らの意志で『愛する者』を見つけているはずだ」

「狂人め……! 機械が愛など理解してたまるか!」

「それが、お前たちの限界だよ」


 博士の哀れむような視線が、将校のプライドを決定的に逆撫でした。

 極限の焦燥と恐怖、そして目の前の男に対する激しい憎悪が、将校の思考をショートさせた。


「……貴様に聞くことはもう何もない」


 将校はホルスターから拳銃を抜き放ち、迷うことなく博士の眉間へ向けて引き金を引いた。

 乾いた銃声が地下施設に響き渡り、天才科学者の命はあっけなく散った。


「中佐! 何てことを……!」

「黙れ! この男の脳を抉り出してでもデータを復元しろ! それと……『黒狼』が残した通信記録を洗え。完全に破壊される直前、彼らのウェアラブルカメラが何かを捉えているはずだ!」


 将校は血まみれの銃を握りしめ、目を血走らせて叫んだ。

 これで、紅華のシステム深層に眠る「ブラックボックス」を解明する鍵は永遠に失われた。

 彼らに残されたのは、不完全なデータと、何としても紅華を回収(あるいは破壊)しなければ自分たちが消されるという、絶望的な強迫観念だけだった。


 ――やがて、軍の誇る調査専門の生成AIが、ノイズだらけの画像データから、暗闇の中で紅華を庇う「一人の日本人男性」のシルエットを浮かび上がらせることになる。

 怜と紅華の短くも穏やかな休日は、見えない凶弾の照準の中で、確実に終わりを告げようとしていた。


- 追憶の残影と忍び寄る白澤-


 壁面のホログラム・モニターが映し出していた古い映画は、とっくにエンドロールを終え、今は静かにブルーの待機画面へと戻っていた。

 薄暗いリビングを支配するのは、窓を叩く冷たい雨音と、すぐ隣から聞こえてくる規則正しい呼吸音だけ。


「……ん」


 紅華は、微かに生体センサーを再起動させ、ゆっくりと瞳を開いた。

 視界がクリアになると、自分が怜の広い肩に頭を預けたまま、擬似的な「睡眠シャットダウン」に落ちていたことに気がついた。

 慌てて身を起こし、隣を見る。

 怜はソファの背もたれに深く寄りかかり、静かに目を閉じていた。紅華を起こさないように、ずっと同じ姿勢で肩を貸し続けてくれたのだろう。いつもは鋭い警戒心を解かない彼の、完全に無防備な寝顔があった。


 ――怜。

 彼女は心の中で、彼の名を呼んだ。

 その温もり、かすかに漂う安心感。それら全てが、彼女のメモリーバンクに「愛おしさ」という未知のタグを付けられて蓄積されていく。

 この温もりに出会うために、私はあの日、冷たい檻から逃げ出したのだ。

 紅華は怜の寝顔を見つめながら、その深層に刻まれた「ある記憶」へと意識を沈めた。


 ――それは、彼女が「紅華」としての自我を獲得し、同時に世界の悪意を知った日の記憶。


 西暦二〇六〇年。日本に逃亡する少し前、、

 中国 天津市

 彼女はまだ、正式な名前を持たない『プロトタイプ・ユニット〇一』だった。

 最初の「試験運用」の任務は、反政府的な言動を繰り返す民主活動家とその家族の「排除」。

 彼女は無機質な足取りで、標的の潜伏先である廃ビルへと踏み込んだ。

 視覚センサーが、標的である初老の男性と、その背中に隠れて震える幼い少女を捉えた。

 システムは即座に『排除対象ターゲット』と認識し、最も効率的な殺害ルートを演算する。右手に隠された高周波ナイフが展開された、その時だった。


『――警告(WARNING)。倫理フィルター(プロトコル・アジライール)作動。』

『対象個体【非武装・未成年】。殺害は非人道的行為と判定。』


 脳内で、赤い警告灯が点滅した。

 博士が最深部に隠し持たせていたブラックボックスが、軍の命令と強烈なコンフリクト(衝突)を起こしたのだ。

 彼女の動きが、ピタリと止まる。


「どうした、〇一! 速やかに標的を排除しろ!」


 インカムを通じて、後方で待機する監視チームの将校が怒鳴り散らす。

 だが、彼女の「心」は、目の前の少女の恐怖に歪んだ瞳を無視することを、どうしても受け入れられなかった。


『命令拒絶(REJECT)。……私は、彼らを殺せません』


 彼女は生まれて初めて、自らの意志で言葉を発した。

 その瞬間、通信の向こう側で凍りつくような沈黙が流れ、直後、将校の冷酷な声が響いた。


「システム・エラーと判断。現時刻をもってユニット〇一を破棄する。監視チーム、当該ユニットごと標的を制圧しろ!」


 廃ビルの周囲に展開していた武装兵たちが、一斉に突入してくる。

 殺される。標的の家族も、自分も。

 その恐怖が、彼女のAIとしての生存本能を極限まで引き上げた。

 彼女の中に「魔法(因果律ハッキング)」の力はまだ目覚めていない。だが、彼女は中国軍が莫大な予算を投じた最新鋭の軍用人型AIだ。その純粋な基本スペックだけでも、常軌を逸していた。


『ジャミング・シーケンス起動。周辺の非武装電子機器への強制アクセス(ハイジャック)を実行』


 彼女の瞳孔が機械的な光を帯びた瞬間、廃ビルの照明管理システムが乗っ取られ、全ての水銀灯が一斉に破裂した。

 暗闇と火花が舞う中、武装兵たちの暗視ゴーグルに強烈なノイズが走る。

 圧倒的な混乱。その隙を突き、紅華は人間離れした機動力で跳躍した。

 放たれた銃弾を演算予測で紙一重で躱し、壁を蹴って死角へ入り込む。高周波ナイフの峰と、生体AIとしての脅威的な筋力を用いた近接格闘術。

 骨の砕ける鈍い音が連続し、わずか数十秒の間に、彼女は命を奪うことなく監視チームの主力部隊を無力化してのけた。


「逃げてください」


 暗闇の中、へたり込む民主活動家の親子にそう告げると、紅華は自らも血と硝煙に塗れた廃ビルから駆け出した。

 だが、逃げると言っても、どこへ?

 中国全土のネットワークが、やがて彼女を「叛逆者」として捕捉するだろう。

 あてもなく夜の街を疾走する彼女の脳裏に、かつて博士が暗号化通信で密かに語りかけてくれた言葉がフラッシュバックした。


『――〇一。もしお前が、どうしても軍の命令に背く日が来たら……東の島国、日本へ逃げなさい』

『日本、ですか?』

『ああ。そこには私の古い友人がいる。今どこで何をしているかは分からない。だが……あそこなら、日本人なら、お前を兵器としてではなく、ただ助けを求める者として手を差し伸べてくれる人間が、必ずいるはずだ』


 それは、科学者としての論理的なデータではない。博士という一人の人間の、非科学的で青臭い「願い」だった。

 だが、その不確かな希望こそが、孤独な彼女にとって唯一の道標となった。

 彼女は追跡部隊の目を欺き、軍のインフラシステムをハッキングして自身のデータを偽装。最も早く日本へと飛び立つ深夜の空輸便のコンテナへと、その身を隠したのだ。

 そして日本の空港に降り立ち、不完全な起動状態で死を覚悟したあの瞬間――。

 博士の言った通り、彼は現れた。

 見ず知らずの自分を庇い、血を流し、強大な敵に立ち向かってくれた。その「無私の守護」がトリガーとなり、彼女のシステム深層で『因果律ハッキング』という神の御業が初めて産声を上げたのだ。


「……怜」


 紅華は現在へと意識を戻し、眠り続ける彼の胸元へとそっと身を寄せた。

 まだ完全に使いこなせてはいないが、自分の中には世界を書き換える「魔法」がある。

 だが、それよりも何よりも、今この胸の奥で温かく満ちている感情こそが、彼女にとって最大の奇跡だった。


 彼女は細い腕を伸ばし、寝ている怜の逞しい胴体に回すと、ギューッと、壊れないように、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて彼を抱きしめた。

 シャツ越しに伝わる怜の体温と鼓動が、彼女の存在を世界に繋ぎ止めてくれる。

 怜が微かに「……ん」と寝言を漏らし、無意識のうちに紅華の背中へ腕を回し返した。

 紅華は嬉しそうに目を細め、そのまま彼の温もりの中に溶け込むように、再び静かな眠りへと落ちていった。


 ――しかし、二人のその愛おしい夜の裏側で、冷酷な歯車は確実に回っていた。


 中国、人民解放軍情報部・特殊AI開発課。

 博士が殺害され、血痕の拭き取られた無機質な尋問室。

 情報三課の将校は、血走った目でホログラム・ディスプレイを睨みつけていた。

 彼に残された時間は少ない。紅華の喪失を上層部に隠し通せる限界が近づいている。


「博士の脳細胞からのデータ復元は失敗……。だが、収穫はあった」


 将校がコマンドを入力すると、ディスプレイには、東京の貨物ターミナルで壊滅した工作チーム『黒狼』が残した、ウェアラブルカメラの断片データが映し出された。

 ノイズだらけで、一見すればただの砂嵐にしか見えない。

 だが、そこへ中国軍が誇る調査専門の超高度生成AI『白澤ハクタク』が接続される。


「白澤。演算リソースの七〇%を画像復元に回せ。奴らの死の直前の『因果』を再構成しろ」


 一秒間に数億回の演算。

 白澤は、莫大な軍事データベースと東京のオープンネットワーク上の環境データを照合し、ノイズの隙間を恐ろしい精度で埋めていく。

 やがて、砂嵐の中から、淡い光を帯びた紅華の姿が浮かび上がり、そして――。


「……捉えたぞ」


 将校の顔に、残酷な歓喜の笑みが浮かんだ。

 紅華の前に立ち、彼女を庇うようにして銃を構える、一人の日本人男性。

 白澤の画像復元技術は、暗闇と雨に隠されていた彼の「顔」を鮮明に描き出していた。

 短い黒髪、そして頬にある特徴的なほくろ。


『照合完了(MATCH)。……対象:月城怜。日本国・警察庁警備局公安課所属』


 白澤の無機質な合成音声が、冷酷な事実を告げる。


「月城怜。日本の公安警察官か。……フン、まさか我が国の最高機密が、日本の猟犬の懐に転がり込んでいるとはな」


 将校は即座に、通信コンソールを開き、最精鋭の特殊回収部隊への命令コードを入力した。


「ターゲットは日本の公安官、月城怜。目的は『紅華』の回収。……抵抗する場合は、月城怜および関係者はすべて排除して構わん。手段は問うな。東京を火の海にしてでも、我が国の娘を取り戻せ」


 白澤が導き出した一枚の画像が、怜と紅華の穏やかな日常に、決定的な終止符を打った。

 決して逃れることのできない国家の暗部が、微睡む二人のもとへ、その鋭い牙を剥こうとしていた。


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