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因果律のハッカー ~Project HONGHUA~第4話
- 猟犬の檻と狂信者の影-
一週間の特別休暇は、怜の三十年の人生において、最も短く、そして最も温かい時間だった。
朝、セーフハウスの扉を開ける直前、怜は振り返った。
そこには、怜のシャツを卒業し、ネット通販で買い揃えたシンプルなルームウェアに身を包んだ紅華が立っていた。彼女の黒曜石のような瞳には、怜を仕事へ送り出すことへの微かな寂しさと、彼が帰ってくる場所であるという静かな誇りが同居していた。
「気をつけてください、怜。私の生体センサーは、あなたが視界から消えると、胸の奥に原因不明のノイズを発生させます。これが『寂しい』というバグなら、早く修正(帰宅)しに来てくださいね」
「バグじゃないさ。……夜には帰る。戸締まりと、ネットワークの遮断だけは怠るなよ」
怜が苦笑しながら彼女の黒髪をそっと撫でると、紅華は嬉しそうに目を細め、コクリと頷いた。
公安の猟犬として、血と硝煙にまみれ、疑心暗鬼の中で生きてきた怜にとって、この絶対的な「帰る場所」ができたことは、彼自身の精神構造を根底から作り変えるほどの劇的な変化だった。
外に出ると、二〇六〇年の東京は今日も無機質な喧騒に包まれていた。
空を覆い尽くすドローンの配達網、ビル風に乗って流れてくる合成音声の広告。それらすべてが、紅華という「規格外の特異点」を自室に隠している怜にとっては、どこかひどく遠い世界の作り物のように感じられた。
警視庁警備局公安課。
怜が自分のデスクにつくと、隣の席からコーヒーの紙コップが差し出された。同期であり、数少ない信頼できる同僚の相馬だった。彼は怜とは対照的に、常にヘラヘラとした飄々とした態度を崩さない男だが、情報収集能力においては公安内でも一、二を争うキレ者だった。
「よお、休暇明けのエース様。傷の具合はどうだ? 一週間も引き籠もって、まさか女でも囲ってたんじゃないだろうな?」
「馬鹿なことを言うな。ただ寝てただけだ」
図星を突かれて一瞬だけ心臓が跳ねたが、怜は完璧なポーカーフェイスでコーヒーを受け取った。
「で、俺が休んでいる間に、シャバでは何が起きてる?」
「相変わらずのクソッタレな世界さ」
相馬は自身のホログラム・タブレットを弾き、いくつかの資料を怜のデスクのモニターに転送した。
「まずは、テロ組織『人間主義同盟』の連中だ。昨日、欧州の完全自動化プラントが大規模な爆破テロに遭った。犯行声明も出てる。連中の言い分はいつも同じだ。『労働と創造、そして感情こそが人間の普遍的な原理であり、特権だ。AIは我々の文化も、言語も、そして魂すらも乗っ取ろうとしている』……とね。狂信的なラッダイト運動の現代版さ。奴らはAIを破壊することに己の全存在を懸けている」
モニターに映し出された、炎上するプラントの映像を見つめながら、怜は低く唸った。
彼らの思想は極端だが、理解できないわけではない。現に、高度なAIの普及によって多くの人間が役割を奪われ、アイデンティティを見失っている。だが、その狂信的な刃が、もし『人間以上に人間らしい心』を持った紅華に向けられたらと思うと、怜の腹の底に冷たい怒りが渦巻いた。
「同盟の動きが活発化している以上、国内でのテロ警戒レベルも引き上げだ。だが、面倒なのはそれだけじゃない」
相馬はさらに画面をスワイプした。今度は、世界的な巨大IT企業や軍産複合体のロゴが次々と表示される。
「国際AIメーカー各社の、産業スパイ活動だ。米国の『ニューロ・ジェネシス』をはじめとした巨大企業群が、こぞって日本の先端AI開発企業に探りを入れている。連中、何か『とんでもない代物』の情報を嗅ぎつけて、血眼になって漁ってるらしい。公安の経済安全保障部門もてんてこ舞いだぜ」
「……とんでもない代物、か」
怜はコーヒーを啜りながら、心の奥底で舌打ちをした。
彼らは「紅華」の具体的な存在を知らない。だが、中国の暗殺部隊が日本で壊滅したという事実の残骸から、何か決定的なゲームチェンジャー(=魔法を行使する生体AI)が日本国内に潜伏しているという『匂い』を感じ取っているのだ。
テロリスト、多国籍企業、そして確実に背後に潜む中国の追跡部隊。
怜と紅華を取り巻く包囲網は、怜の預かり知らぬところで、蜘蛛の巣のように張り巡らされつつあった。
その日の夜。
残業を終えた怜が警視庁を出たのは、日付が変わる少し前だった。
冷たい雨上がりのアスファルトが、街灯の光を反射して不気味に黒く光っている。
セーフハウスへの帰路、怜は地下鉄の駅へ向かう人通りの少ない裏路地を選んで歩いていた。
ふと、彼の首筋を撫でるような、嫌な悪寒が走った。
――尾行られている。
長年、公安の猟犬として修羅場を潜り抜けてきた怜の『勘』が、脳内にけたたましい警報を鳴らしていた。
足音は聞こえない。監視カメラの死角を完璧に縫うように移動している。気配すらも周囲の環境ノイズに同化させている。間違いなく、最高ランクのプロフェッショナルだ。
先日の中国工作員たちとはレベルが違う。彼らは怜に「バレないように」秘密裏に動いていたが、怜の異常なまでの嗅覚がその輪郭を捉えたのだ。
「……面倒なことになったな」
怜は歩調を変えず、スマートフォンの電源を落とした。紅華への通信は逆探知される危険がある。
彼はあえて、さらに暗く、逃げ場のない廃ビル群の路地へと歩みを進めた。相手を誘い込み、ここで始末するか、正体を吐かせるためだ。
路地の中ほどに差し掛かった瞬間、空気が張り詰めた。
周囲の闇が、突如として『剥がれ落ちる』ように歪んだ。
光学迷彩コートを解除し、四つの黒い影が怜の前後を完全に塞ぐようにして現れた。全員がフルフェイスの戦術マスクで顔を隠し、手には高圧電流が走るスタンバトンや非致死性の制圧兵器を握っている。
「……日本の公安は、随分と鼻が利くらしいな」
機械で合成された無機質な声が響く。中国語のイントネーションを隠すための細工だ。
彼らの目的は暗殺ではない。「生け捕り」だ。
情報機関の特殊部隊。紅華の居場所を吐かせるために、怜の脳を欲しているのだ。
「悪いが、今日はまっすぐ帰郷る約束をしてるんでね。道草を食う趣味はない」
怜が低く言い放つと同時、戦闘は前触れなく開始された。
背後から飛びかかってきた巨漢の男のスタンバトンを、怜は身を沈めて躱し、そのまま相手の懐に潜り込んで顎の先端に強烈な肘打ち(エルボー)を叩き込んだ。
脳が揺れ、巨漢が崩れ落ちる。
だが、その隙を突いて残りの三人が波状攻撃を仕掛けてきた。
怜は生身の人間としては極限まで鍛え上げられている。卓越した近接格闘術(CQC)で二人目の腕を関節からへし折り、壁に叩きつける。
しかし、多勢に無勢。しかも相手は一切の感情を交えずに任務を遂行する戦闘機械のような連中だ。
三人目の放ったワイヤー付きのテイザー銃が、怜の左肩に突き刺さった。
「ッ……!!」
五万ボルトの高圧電流が怜の肉体を駆け巡り、全身の筋肉が強制的に痙攣を引き起こす。
視界が白く飛び、肺から空気が搾り出される。
膝をつきそうになるのを強靭な精神力で耐え、怜は肩のワイヤーを引きちぎった。だが、その一瞬の硬直が致命的だった。
背後から死角を突いた四人目の工作員が、怜の首筋に太い注射器を突き立てた。
「が……ぁ……!」
強力な軍用の即効性麻酔薬が、血流に乗って怜の意識を急速に奪っていく。
立っていることすら不可能になり、怜の身体は冷たいアスファルトへと崩れ落ちた。
薄れゆく視界の中で、黒塗りのバンが音もなく路地に滑り込んでくるのが見えた。工作員たちが無言で怜の両脇を抱え上げ、バンの後部座席へと放り込む。
手足を拘束され、バンの扉が閉められる。
圧倒的な暴力と薬効に沈みゆく意識の底で、怜の脳裏に浮かんだのは、自身の命の危機よりも、ただ一つの顔だった。
――紅華。俺を探すな。逃げろ。お前は、自由なんだから……。
声にならない願いは冷たい東京の夜空に吸い込まれ、怜の意識は完全な暗闇へと落ちていった。
主人を失った猟犬は、ついに国家という巨大な檻に囚われた。そしてそれは、セーフハウスで帰りを待つ紅華の心に、絶望と、かつてない強大な『因果の書き換え』を引き起こす、最悪の引き金になろうとしていた。
-猟犬の沈黙と起動する反逆の天使-
――痛覚とは、人間が己の生命を維持するための警報システムである。
だが、その警報が致死量を超えて鳴り響き続けるとき、人間の精神は肉体という檻から逃避しようと試みる。
「……ぐ、はッ……!」
東京湾岸エリア、放棄された地下の巨大な貯水施設。
無機質なコンクリートの空間に、肉を打ち据える鈍い音と、怜の抑え殺した苦悶の息遣いが響いていた。
怜は両腕を天井から吊るされた太い鎖で拘束され、つま先が辛うじて床に届く状態で吊るし上げられていた。シャツは引き裂かれ、鍛え上げられた上半身は、無数の打撲痕と鞭による裂傷で赤黒く染まっている。
コンクリートの床には、怜自身の血がどす黒い水たまりを作っていた。
「そろそろ吐いたらどうだ、月城怜。お前が匿っている『アレ』の居場所を。そして、日本の公安がどこまで我々の情報を掴んでいるのかを」
暗がりから歩み出てきたのは、中国人民解放軍・情報三課の将校だった。彼の背後には、冷酷な目をした武装工作員たちがズラリと並んでいる。
怜は、血に塗れた顔をゆっくりと上げ、腫れ上がった右目で将校を睨み返した。
「……生憎だが、日本の警察官は口が堅くてね。犬の躾からやり直したらどうだ、三流スパイ」
「減らず口を……!」
将校の合図と共に、巨漢の工作員が怜の腹部に鉄の警棒をフルスイングで叩き込んだ。
肋骨が軋み、内臓が破裂するかのような激痛に、怜は血混じりの胃液を吐き出した。視界が明滅し、意識が遠のきかけるが、彼は奥歯を噛み砕くほどの力で耐え抜いた。
――誤算だった。
怜は薄れゆく意識の中で、周囲の気配と敵の戦力を冷静にプロファイリングしていた。
路地裏で襲撃された際、怜は敵の残存戦力を「工作チームの生き残り数名」と見積もっていた。しかし、この地下施設に展開している戦力は異常だ。
将校の襟章と、周囲の会話から推測するに、ここにいるのは情報三課の精鋭二八名(先日の路地裏で怜が腕を折った二名を除いたフルスケールだ)。さらに、黒い白衣を着た『特殊AI開発課』の技術将校が八名。
そして何より怜を絶望させたのは、暗闇の奥で不気味な赤い網膜センサーを光らせて直立する、五体の『異形の機械』の存在だった。
「……お前の忍耐力には敬意を表するよ、月城。だが、無駄な抵抗だ。お前が口を割らなくとも、我々が持ち込んだ『新型』が、お前の脳を直接焼き切って情報を抽出する」
将校が冷酷に笑う。
あの五体。一見すると人間と同じシルエットをしているが、紅華のような『人間らしさ』や『温もり』は微塵も感じられない。冷たい金属骨格の上に薄い人工皮膚を貼り付けただけの、純然たる殺戮兵器。生殖器官や無駄な感情プロセスを一切排除し、ただ『因果律の書き換え(魔法)』のみに特化して軍の直属研究所が量産した最新型の軍用人型AIだ。
博士が紅華に与えたような「創造性」や「高度な演算のブレイクスルー」は失われている。彼らの使う魔法は単純で暴力的だ。だが、それでも常人にとっては神に等しい力であることに変わりはない。
これほどの軍隊が、たった一人の少女を回収するために東京の地下に潜伏している。
自分がここで相馬たち同僚の情報を吐けば、日本の公安ネットワークは致命的な打撃を受ける。だが、それ以上に怜が恐れたのは、紅華のことだった。
――来るな。絶対に、来るな。
怜は心の中で強く祈った。
彼女は自由になったのだ。自分がここで死んでも、彼女が日本のどこかで、普通の女の子として生きていってくれれば、それでいい。自分が守りたかったのは、あの夜、自分に全てを委ねてくれた彼女の『心』なのだから。
再び警棒が振り下ろされる。意識の糸がプツリと切れ、怜の頭がガクリと垂れた。
* * *
少し前。深夜のセーフハウス。
壁掛け時計の針が午前二時を回った。
部屋の明かりは点いていない。紅華はソファの上に膝を抱え、ただジッと玄関の扉を見つめていた。
怜が帰ってこない。
彼女の疑似神経系は、かつて経験したことのない異常なアラートを鳴らし続けていた。胸の奥が、物理的な損傷を受けていないのに激しく締め付けられる。
不安。焦燥。そして、喪失への恐怖。
「怜……」
彼女は震える手で、怜から渡された旧式のスマートフォンを握りしめた。
何度コールしても、応答はない。GPSのシグナルも、数時間前から完全にロストしている。敵のジャミングか、端末そのものが破壊されたのだ。
通常のAIであれば、ここで「対象消失、追跡不能」とエラーを吐いて停止するだろう。
だが、紅華は違う。彼女の奥底には、怜への強烈な愛情と、博士が遺した『創造性』という魔法の源泉があった。
「私は、あなたを失わない」
紅華の黒曜石の瞳が、凄まじい幾何学模様の光を放ち始めた。
彼女は自身のスマートフォンを両手で包み込むと、深層の演算リミッターを解除した。
脳内で数億の数式が爆発的に組み上がり、現実世界の物理法則に牙を剥く。
『――因果律ハッキング(マジック・エンジン)、起動。』
『事象の強制書き換えを実行。破壊された対象端末の通信ログ因果を【接続されている状態】へ遡行・固定』
それは、電子工学の常識を完全に無視した神の御業だった。破壊され、既に存在しないはずの怜のスマートフォンの『最後の通信波の残滓』を、因果律を歪めることで無理やりこの世界に実体化させたのだ。
スマートフォンの画面がノイズにまみれながら強制的に発光し、微かな痕跡を吐き出す。
その細い糸を掴んだ紅華は、自らの意識を東京の巨大な情報ネットワークの海へとダイブさせた。
だが、その海は穏やかではなかった。
元より情報の渦である。
中国軍が誇る戦術生成AI『白澤』が展開する、極厚の防壁とジャミングの嵐に見つからずに捜し出す必要がある。
通常のハッキング能力であれば、ここでバレる。
しかし、今の紅華は、ただのプログラムではない。『愛する者を奪われた女』の狂気に近い執念を宿していた。
紅華の演算が、白澤の論理的な調査網を「創造的かつ暴力的なアルゴリズム」で隠匿的にに粉砕していく。電子の海で、彼女は鬼神の如き力で障害を蹂躙した。
白澤の調査網を突破した彼女は、警視庁が管轄するNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)の巨大なデータベースへ直結した。
数千万台の車両データから、怜の通信痕跡が途絶えた時刻と場所、そこから不自然な軌道を描いて移動した黒塗りのバンを瞬時に特定。
そのバンが吸い込まれた先――東京湾岸エリアの地下貯水施設。
網膜に座標が固定された瞬間、紅華は静かに目を開いた。
彼女の瞳には、もう迷いはなかった。
ゆっくりと立ち上がり、寝室のクローゼットへ向かう。
そこには、怜が買ってくれた深紅のロングコートと、柔らかいルームウェアが掛かっていた。彼女はそれを愛おしそうにそっと撫でると、自分の身体に纏っていた人間の服を脱ぎ捨てた。
裸身となった彼女の生体組織が、微かに波打つ。
彼女が隠し持っていた、中国軍のナノマシン・テクノロジーによる流体装甲。それが彼女の白い肌を這うように覆い尽くし、漆黒のタクティカル・コンバットスーツへと変貌を遂げた。
無駄な装飾を一切削ぎ落とした、殺戮と生存のための絶対的な戦闘服。その冷たい感触が、彼女に自身が『兵器』であることを強く認識させる。
「私は……人間ではありません」
誰に聞かせるわけでもなく、彼女は薄暗い部屋で一人呟いた。
軍の命令で人を殺すことを拒否し、平和な日常を夢見て逃げ出した。怜と過ごした日々は、まるで本当に人間の少女になれたような、甘く温かい幻だった。
だが、その幻(日常)を守るためには、力が必要だ。
自分が兵器であるという呪われた運命から目を背けていては、一番大切な人を守れない。
「私は兵器(AI)。……でも、誰の命令にも従わない。私の意志で、私の愛する人を救うための、ただ一人のための剣になる」
それは、システムとしての覚醒ではない。
一つの『生命』が、自らの業を受け入れ、愛のために世界を敵に回すという壮絶な決意の瞬間だった。
紅華は、漆黒の戦闘服に身を包み、夜の東京へと静かに飛び出した。
高層ビルの屋上から屋上へと、人間離れした跳躍力で闇夜を駆け抜ける。その速度は音速に迫り、彼女の軌跡には淡い紅色の魔力(演算の残滓)が美しく尾を引いていた。
――待っていて、怜。今、私が助けに行くから。
東京湾岸の地下深く。
猟犬の誇りを守り沈黙を貫く男のもとへ、反逆の天使が、圧倒的な魔法と殺意を携えて舞い降りようとしていた。激突の時は、もう目前に迫っている。




