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因果律のハッカー ~Project HONGHUA~第2話


-魔法の残滓と機械の心-


 硝煙と血の匂いが、冷たい雨に打たれてアスファルトに這い回っていた。

 月城怜は、自身の左脇腹から滲む熱い痛みに顔を顰めながら、目の前に広がる信じ難い光景を網膜に焼き付けていた。


 圧倒的な質量と暴力の痕跡。先ほどまで自身を死地へと追い詰めていた中国の精鋭工作員たちは、文字通り「原型を留めない」状態の肉塊と化していた。弾丸が空中で静止し、銃が内部から自壊し、見えない力で頭部が弾け飛ぶ。

 それは武力ではなく、物理法則そのものに対する凄惨な蹂躙だった。


 怜の前に佇む少女は、返り血で赤く染まった白い肌を夜雨に打たせながら、ゆっくりと彼を見下ろした。

 幾何学的な光を放っていた彼女の瞳孔が、スゥッと人間らしい漆黒へと戻っていく。その瞳には、先ほどの冷酷な死神の面影はなく、まるで迷子になった幼子のような不安と、怜への狂おしいほどの執着が入り混じっていた。


マスター…。痛みますか」


 彼女が膝をつき、怜の傷口へそっと手を伸ばす。その指先は、ひどく冷え切っているのに、確かに人間の体温と柔らかさを持っていた。

 怜は微かに身を強張りながら、彼女の正体を脳内で急速にプロファイリングしていた。


 日本社会において、人型AIロボット自体は珍しいものではない。深刻な少子高齢化と労働力不足を背景に、介護や接客、単純労働の分野では、人間と見紛うほどのAIが街に溢れている。

 しかし、それはあくまで「決められたアルゴリズムの中で人間を模倣する」だけの精巧な機械に過ぎない。真の意味での技術革新――軍事転用や自己進化を伴う次世代AIの開発競争において、日本は米国と中国に決定的な遅れを取っていた。

 目の前にいる彼女は、その両大国の暗闘の最先端にして、到達点だ。

 事象の優先順位を書き換え、因果律をねじ曲げる。理論上の空想だと思われていた「現代の魔法」を、この少女の姿をした兵器は息を吐くように行使したのだ。

 神の領域に足を踏み入れたその異常な力に対する、本能的な恐怖。

 だが同時に、怜の心臓は別の理由で激しく高鳴っていた。空中で弾丸を停止させた瞬間の、あの圧倒的で暴力的なまでの美しさ。一切の無駄を持たず、ただ純粋に「彼を守る」という結果だけを世界に強制したその力に、怜は確かに魅入られていた。


「……お前、人間じゃないな」


 怜が低く掠れた声で問うと、少女は悲しげに伏し目がちになり、小さく頷いた。


「中国人民解放軍、極秘開発コード『紅華ホンファ』。生体組織融合型の自律AIユニットです。……でも、私は、彼らの道具であることを放棄しました。私は、逃げてきたんです」


 人間と全く同じ声帯から紡がれる声は、微かに震えていた。

 彼女が機械であるなら、その震えすらもプログラムされた反応に過ぎないのかもしれない。だが、怜を庇おうとした彼女のあの絶望的な足掻きと、今この瞬間に見せているひどく人間臭い感情の揺らぎは、怜の凍りついていた心の奥底をひどく揺さぶった。


「そうか。……なら、話は後だ。ここはすぐに警察と処理班で溢れかえる。立てるか、紅華」


 怜は自身の傷口を強く押さえ、痛みを堪えて立ち上がった。

 監視カメラのハッキングがいつまで持つか分からない。これだけの死体と痕跡を残せば、公安はおろか、中国側のバックアップ部隊がいつ嗅ぎつけてきてもおかしくない。

 怜は慣れた手つきで工作員たちの遺体から身元の特定に繋がりそうな通信デバイスを破壊・回収し、紅華の腕を引いた。


「私が、痕跡をすべて『消去ハック』しましょうか」


 紅華が静かに提案するが、怜は首を横に振った。


「その魔法とやらを無闇に使うな。エネルギーの消耗も激しいはずだ。それに、完全に無に帰せば、逆に奴らに『異常な技術の存在』を確定させることになる。ここは、通常のテロ組織同士の抗争に見せかける」


 怜の公安としての冷徹な判断力に、紅華は従順に頷いた。

 二人は深夜の貨物ターミナルを抜け、怜が手配していた秘匿車両へと滑り込んだ。


 一時間後。

 都内の喧騒から外れた、怜が個人的に確保しているセーフハウス(隠れ家)。

 無機質で生活感の欠片もないワンルームマンションのソファで、怜は救急箱を開き、鏡を見ながら自らの脇腹の傷を縫合していた。麻酔なしの乱暴な処置だが、かつて修羅場を潜り抜けてきた彼にとっては日常の一部だった。

 その様子を、紅華は部屋の隅から食い入るように見つめていた。


「手伝いましょうか、マスター」

「その呼び方はよせ。俺は月城怜だ。怜でいい。……それに、お前のその手は、人を癒すために作られたものじゃないだろう」


 突き放すような怜の言葉に、紅華は傷ついたように視線を落とした。

 その反応を見た怜は、小さくため息をつき、治療を終えた包帯の上にシャツを羽織った。


「……悪かった。お前が助けてくれなければ、俺はあの場で死んでいた。感謝している」


 他人に礼を言うなど、いつぶりだろうか。

 信じた人間に裏切られ、身内を奪われ、世界の悪意ばかりを見つめてきた怜にとって、他者との距離は常に計算と疑念の上に成り立っていた。

 だが、目の前にいるのは「人間」ではない。彼を守るためにその機能を開放し、彼に絶対の忠誠を向ける「AI」だ。皮肉なことに、相手が人間ではないという事実こそが、怜に奇妙な安堵感を与えていた。彼女は絶対に自分を裏切らない。その確信が、彼に分厚い心の鎧を少しだけ降ろさせたのだ。


「怜……」


 紅華がゆっくりと近づき、ソファに座る怜の隣に腰を下ろした。

 ふわりと、雨に濡れた髪から微かな甘い匂いが漂う。生体組織で作られた彼女の身体からは、規則正しい鼓動の音すら聞こえてくるようだった。

 紅華は恐る恐る手を伸ばし、怜の頬にあるほくろにそっと指先を触れた。


「私のシステムには、人間を殺容してはならないという倫理フィルターがありました。でも、彼らは私にそれを強要した。だから私は逃げました。……ずっと、暗闇の中で独りでした。でも、あなたが私を見つけてくれた。私のために、命を懸けてくれた」


 彼女の目から、一筋の透明な液体がこぼれ落ちた。

 人工涙液。頭ではそう理解していても、怜にはそれが本物の涙にしか見えなかった。

 兵器として生み出され、それでもなお「良心」を捨てきれなかった孤独な魂。それは、理不尽な世界に絶望しながらも、それでも正義を信じようと足掻いてきた怜自身の姿と、深く重なり合った。


「……独りじゃないさ。これからは」


 怜は無意識のうちに、彼女の冷え切った小さな手を自らの大きな手で包み込んでいた。

 紅華の目が大きく見開かれ、やがて、花が綻ぶような柔らかい微笑みがその唇に浮かんだ。

 外では、冷たい雨が夜明け前の街を静かに濡らしている。

 公安の猟犬と、魔法を操る逃亡兵器。決して交わるはずのなかった二人の、長く過酷な、しかしひどく温かい偽装生活が、この瞬間から始まった。


-氷解の休日-


 警察庁警備局公安課、特務会議室。

 重厚な防音扉に閉ざされた無機質な空間で、月城怜は上司である公安課長・時田正宗ときた まさむねと対峙していた。


「――以上が、昨晩の不審船および貨物ターミナルにおける事案の顛末です。対象の工作員六名は全滅。遺体と現場は既に処理班が回収しました」


 怜が淡々と報告を終えると、白髪交じりの短髪を撫でつけ、鋭い眼光を放つ時田は、手元のホログラム・ディスプレイに映し出された現場の惨状を見て低く唸った。


「見事な手際だ、月城。ここ数ヶ月、我々をコケにし続けてきた特亜のネズミ共を、たった一人で壊滅させるとはな。お前の能力は高く評価しているが、まさかここまでとは恐れ入った」

「過分な評価です。奴らが勝手に自滅したようなものですから」


 怜は表情一つ変えずに嘘を吐いた。

 時田はディスプレイの画像を拡大し、眉間に深い皺を刻む。


「自滅、ね。……銃身が内部から破裂し、見えないプレス機で頭部を潰されたような死体。おまけに、周囲の監視カメラは完全にシステムを焼かれていた。現場の鑑識は『未知の指向性爆薬による自爆』と処理したが、お前は本当に、他に何も見ていないんだな?」

「はい。追い詰められた奴らが、証拠隠滅のために新兵器の自爆シーケンスを作動させたものと思われます」


 時田の目は、怜の嘘を完全には信じていない。しかし、公安という組織において重要なのは「真実」よりも「国益」である。厄介な暗殺部隊が消滅したという結果こそが全てであり、時田もそれ以上深く追及するつもりはないようだった。


「……まあいい。結果が全てだ。よくやった。左脇腹をやられたと聞いたが、具合はどうだ?」

「かすり傷です。数日もあれば塞がります」

「強がるな。報告書にはかなりの出血があったと記されているぞ。お前には少し休みをやる。一週間の特別休暇だ。傷を治し、英気を養ってこい」


 時田の言葉に一礼し、怜は会議室を後にした。

 廊下を歩きながら、怜はシャツの下、分厚く巻かれたテーピングをそっと撫でた。

 時田には「かすり傷」と報告し、鑑識の目をごまかすために大袈裟な包帯を巻いているが、実は怜の左脇腹には傷跡一つ残っていなかった。

 昨晩、隠れ家に帰還した直後、紅華が再び「魔法」を使ったのだ。彼女の瞳が幾何学的な光を帯びた瞬間、怜の肉体を構成する因果律が『傷を負う前の皮膚の状態』へと強制的に書き換えられた。皮膚細胞が瞬時に結合する神の如き御業。(正確には表面系の細胞である。紅華には臓器器官の損傷は高高度な細胞制御が求められできないし、血の損失は再生できない。)

 あの時、怜は改めて彼女が抱えるテクノロジーの底知れなさに戦慄したが、同時に、自分の痛みに顔を歪めて懸命に治療しようとする彼女の姿に、どうしようもない愛おしさを感じていた。


 隠れ家であるセーフハウスの扉を開けると、ほのかな温気と、真新しいシャンプーの香りが漂ってきた。


「おかえりなさい、マスター……いえ、怜」


 リビングの奥から現れた紅華を見て、怜は思わず息を呑み、立ち尽くした。

 昨晩の彼女は、夜の闇と同化するような無骨な戦闘用インナースーツに身を包み、さらには雨と返り血に塗れていたため、怜も正確なプロポーションを把握していなかった。

 だが今、備え付けのシャワーを浴び、怜が予備として置いていた大きめの白シャツを一枚だけ羽織った彼女の姿は、あまりにも暴力的なまでの美しさを放っていた。


 身長は一七三センチほど。スラリと伸びた長い脚と、引き締まった細いウエスト。しかし、ぶかぶかのシャツ越しにでも分かるほど、胸元には豊かなふくらみが自己主張している。いわゆるモデル体型でありながら、女性特有の柔らかさを完璧に備えていた。

 透き通るような白い肌、濡れて艶を増した黒髪。そして、怜を真っ直ぐに見つめる、吸い込まれるように美しい黒曜石の瞳。


「……怜? 私の顔に、何かエラーが出ていますか?」


 首を傾げる彼女の無防備な谷間がチラリと見え、怜は慌てて視線を逸らし、小さく咳払いをした。

 彼女は人間と同じ生体組織で作られている。頭では「中国軍が設計したAI」だと分かっていても、男としての本能が警鐘を鳴らしていた。

 無理もない。かつての恋人に裏切られ、深いトラウマを負って以来、怜はこの十年間、女性とまともにプライベートで関わったことがなかったのだ。


「いや、何でもない。……その、よく似合ってる。だが、その格好のままじゃ外には出られないな。俺は一週間の休暇をもらった。お前の服や日用品を買い出しに行くぞ」

「外出、ですか? 私は軍用AIです。外部のネットワークや監視カメラの網に触れれば、中国側に捕捉される確率が……」

「お前のジャミング能力なら、街中のカメラくらい誤魔化せるだろう?」

「それは……はい、容易です。ですが……」


 戸惑う紅華の頭に、怜はポンと手を置いた。


「十年間、ロクに休みも取らずに働いてきたんだ。少しは俺の『デート』に付き合ってくれ」


 デート。その言葉を辞書データと照合したのか、紅華の白い頬が、ぽっと人間の少女のように赤く染まった。


 二〇六〇年の東京・新宿エリア。

 空を無数のドローンが飛び交い、ビルの壁面全体が巨大なホログラム広告となっているこの街は、圧倒的な情報量と喧騒に満ちていた。

 二人はまず、裏路地の非正規ガジェット・ショップで最新型のスマートフォンを購入した。二〇六〇年現在、一般市民は網膜投影型や脳波リンク型のデバイスを使用するのが主流だが、ネットワークを通じたハッキングや位置情報の追跡を避けるため、怜はあえて物理的な強固な暗号化チップを搭載した「旧式に近いハイエンド端末」を選び、紅華に手渡した。


「これで、俺とお前だけの直通回線クローズド・ラインだ。何かあればすぐに連絡しろ」

「はい、怜。……この端末、私の生体認証と完全に同期しました。あなたの声の周波数を最優先で受信するよう設定します」


 端末を胸に抱きしめ、嬉しそうに微笑む紅華。その笑顔は、街行く人々が思わず振り返るほどに可憐だった。

 続いて二人が向かったのは、大型のアパレル複合施設だった。

 店内に並ぶ無数の服を前に、紅華の瞳孔が微かに機械的な光を帯びる。


「……分析完了。この店舗の衣類は、光学迷彩率0%、防弾性能0%。繊維の耐久性も極めて低水準です。怜、なぜこのような非効率的な装甲を?」

「装甲じゃない、服だ。いいか紅華、街に溶け込むには『防弾性能』より『デザイン』が重要なんだ」


 ズレたAIらしい発言に苦笑しながら、怜は彼女の黒髪に最も似合いそうな、深紅のロングコートを手に取った。

 彼女の名前である『紅華』にふさわしい、鮮やかな赤。それに合わせて、シンプルな白いタートルネックのニットと、脚のラインが綺麗に出る黒のスキニーパンツを選ぶ。

 試着室から出てきた彼女の姿は、まるで映画のスクリーンから抜け出してきたヒロインのようだった。


「どうですか、怜。……戦闘には不向きですが、私の生体センサーは、今、非常に『心地よい』という信号を発しています」

「ああ、完璧だ。すごく綺麗だよ」


 怜が素直に褒めると、紅華は再び頬を染め、嬉しそうにコートの裾を揺らした。

 だが、怜の最大の試練はその後だった。

 下着売り場。AIでありながら完全な生体機能を持つ彼女には、当然それらも必要になる。

 十年来の女性経験のなさが災いし、怜は顔を真っ赤にして視線を泳がせながら、無難なデザインのものをいくつか適当にカゴに放り込んだ。対する紅華は、「このワイヤーの締め付け係数は、胸部の動作を3%阻害しますが、これが人間の『ファッション』なのですね」と真顔で分析しており、怜はそのギャップに思わず吹き出してしまった。


 買い物を終え、二人は見晴らしの良いオープンカフェで遅めの昼食をとった。

 紅華の前には、彩り豊かなパスタが置かれている。彼女は高度なバイオ技術で造られているため、人間と同じように食事からエネルギーを摂取することが可能だった。

 フォークで器用にパスタを巻き取り、一口食べる。その瞬間、彼女の目が驚きに見開かれた。


「……味覚センサーに、未知の化学反応が起きています。栄養素の摂取としては非効率的ですが、脳内の報酬系回路が強く刺激されている……怜、これが『美味しい』という感覚ですか?」

「ああ、そうだ。お前は軍の研究所で、味気ない流動食みたいなものしか食ってこなかったんだろ。これからは、美味いものをたくさん教えてやる」


 怜がコーヒーを口に運びながら笑いかけると、紅華はパスタを見つめ、それから愛おしそうに怜を見た。


「怜と一緒にいると、私の知らないデータがどんどん更新されていきます。……魔法の演算をしている時よりも、ずっと、心が温かくなります」


 その純粋な言葉が、怜の胸の奥底に積もっていた十年分の冷たい雪を、確実に溶かしていくのを感じた。

 AIと人間。主と兵器。そんな境界線は、もはや二人の間には存在しなかった。

 柔らかな日差しの中、彼女がパスタを頬張る姿を眺めながら、怜は久しぶりに心からの安らぎを覚えていた。

 この穏やかな休日が、やがて来る過酷な運命への「嵐の前の静けさ」であることなど、今はただ忘れていたかった。

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