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因果律のハッカー ~Project HONGHUA~ 第1話
-境界線の邂逅-
深夜二時。関東郊外に位置する国際空港の第二貨物ターミナルは、冷たい雨と重苦しい静寂に包まれていた。
コンテナが迷路のように積み上げられた無機質な空間。水たまりに乱反射するオレンジ色の街灯だけが、この場所が現実であることを辛うじて繋ぎ止めている。
月城怜は、積まれたパレットの影に身を潜め、冷え切った空気を静かに肺へと吸い込んだ。
身長一七五センチ。細身だが無駄なく鍛え上げられた肉体は、闇の中で周囲の景色と完全に同化している。短い黒髪から滴る雨水が、彼の端正な顔立ちと、頬にある特徴的なほくろを伝って落ちた。
怜の視線の先には、先ほど到着したばかりの中国発の大型輸送機がある。そして、その周囲に展開する六つの影。
――ビンゴだ。
怜は内心で短く呟き、タクティカルグローブ越しの指で、愛銃のセーフティを静かに外した。
彼らはここ数ヶ月、日本国内で非公表の破壊工作を繰り返していた中国情報機関の暗殺部隊だった。公安の若手エースとして彼らを追い続けてきた怜にとって、これは千載一遇のチャンスだった。彼らは徹底的な情報統制を敷き、尻尾を掴ませなかった。だが今夜、彼らはなぜか焦ったように、この深夜の貨物ターミナルに集結している。
怜は網膜に投影された戦術デバイスを確認した。ターミナル一帯の監視カメラは、数分前から不可解なジャミングによって完全に沈黙している。つまり、ここで何が起きようと「公式には何も起きていない」ことになる。
網を張るには最悪の状況だが、逆に言えば、ここで奴らを全員制圧できれば、日本の治安を脅かす最大の癌を取り除くことができる。
その時だった。
輸送機の後部ハッチの暗がりから、ふらつくような足取りで「それ」が降りてきた。
「……女?」
怜は息を呑んだ。暗視スコープ越しに見えたのは、軍事施設にはおよそ似つかわしくない、二十歳前後の少女だった。
濡れた黒髪が白い肌に張り付き、その双眸は恐怖ではなく、ひどく冷徹な光を帯びて周囲を警戒しているように見えた。着の身着のままといった薄着の彼女は、周囲の闇に溶け込もうとしているが、その足取りには明らかな疲労が滲んでいる。
次の瞬間、空気が張り詰めた。
展開していた六つの影――工作員たちが、一斉に少女へ向かって牙を剥いた。
減音器を装着したサブマシンガンが、夜の静寂を切り裂いて鈍い排莢音を響かせる。
殺される。怜がそう直感した瞬間、少女の身体が常人離れした速度で弾道を躱した。
コンテナを蹴り上げ、宙を舞うようにして身を翻すと、彼女の手に握られたサバイバルナイフが鈍い光を放った。着地と同時、先頭の工作員の喉元を躊躇いなく掻き切る。鮮血が夜の闇に黒く飛沫を上げた。
しかし、彼女の動きはどこか不完全だった。関節の挙動に微かなノイズが混じっているような、あるいは、極限状態による疲労困憊か。人間離れした機動力を見せながらも、圧倒的な数と火力の前に、彼女は次第にコンテナの奥へと追い詰められていく。
「……くそっ」
怜の胸の奥で、冷たく凍りついていた感情が僅かに波立った。
あの少女は誰だ。中国からの亡命者か。それとも、奴らの組織の裏切り者か。
どちらにせよ、工作員たちがこれほどの火力を使ってまで彼女を「抹殺」あるいは「確保」しようとしているのは明白だった。
公安の捜査官としての冷徹な思考が、怜の脳裏で素早く計算を弾き出す。
――ここで介入するのは危険だ。部隊の応援を待つべきか? いや、監視カメラが死んでいるこの状況で彼女が殺されれば、奴らは痕跡一つ残さずに消え去るだろう。次に奴らの尻尾を掴めるのはいつになるか分からない。ここで工作員たちを拘束、あるいは排除しなければ、国益に関わる。
それは、公安警察としての立派な「大義名分」だった。
だが、怜の足を取ったのは、そんな理屈だけではなかった。
弾雨の中で、肩を撃ち抜かれ、それでもなおナイフを握り直して立ち上がろうとする少女の姿。
その必死な瞳が、暗がりの中で一瞬、怜の隠れている方向を向いた気がした。
助けを求めているわけではない。ただ、絶望の中で生き足掻く強烈な意志。
テロリストに両親を奪われ、不都合な真実の果てに姉を殺された。あの時、自分は何もできなかった。何も守れなかった。
目の前で、理不尽な力によって命を奪われようとしている「一人の人間」がいる。
その事実が、他人に心を閉ざし、外面だけを取り繕って生きてきた怜の奥底にある「善性」を強烈に刺激した。
「……どうせ、このままじゃ俺も寝覚めが悪い」
怜は低く呟き、コンテナの影から一歩を踏み出した。
少女に三人の工作員が迫り、その銃口が彼女の頭部へ向けられた瞬間だった。
暗闇を縫うように、怜の放った銃弾が先頭の工作員の膝を正確に撃ち抜いた。
短い悲鳴が上がり、敵の陣形が崩れる。
怜はためらうことなく雨の降るターミナルの中央へ、彼女を庇うように飛び出した。
「そこまでだ」
冷たい雨を切り裂くような、怜の静かでよく通る声が響く。
驚愕に目を見開く少女の前を塞ぐように立ち、怜は残る工作員たちへ向けて迷いなく銃口を突きつけた。
彼自身の命をチップにしてでも、この理不尽を叩き潰す。その覚悟が、少女の内部に眠る「何か」のトリガーを引いたことに、怜はまだ気づいていなかった。
-守護者のフェーズ-
怜の放った九ミリパラベラム弾が、静寂を完全に打ち砕いた。
先頭の工作員が膝を砕かれて昏倒するのと同時、残る五つの銃口が一斉に怜へと向けられる。
怜は即座に身を沈め、隣接するアルミ製航空コンテナの陰へと滑り込んだ。直後、彼が先ほどまで立っていた空間を、無数の凶弾が嵐のように通り過ぎる。鼓膜を打つ連続した破裂音と、コンテナが蜂の巣にされる甲高い金属音が夜の雨に溶け込んでいく。
「ちぃっ……!」
怜は舌打ちをし、コンテナの端から牽制の二発を撃ち返した。一人に命中したが、防弾ベストに阻まれて致命傷には至らない。
敵はプロ中のプロだ。動揺は一瞬で消え去り、無駄のないタクティカル・ムーブで怜を十字砲火の罠へと追い込もうと展開し始めている。
怜の武器は、公安支給のSIG P230JPのみ。対する敵は、完全武装の暗殺部隊。火力も手数も圧倒的に不利だった。
だが、怜の頭脳は極限状態の中で恐ろしく冷え切っていた。恐怖はない。あるのは、長年彼を縛り付けてきた仄暗い衝動だけだ。
――また、見殺しにするのか?
脳裏にフラッシュバックするのは、血溜まりの中で冷たくなっていた両親の姿と、真実に近づきすぎて消された姉の横顔。
力がないから奪われる。権力がないから揉み消される。
その理不尽に対する激しい怒りこそが、月城怜という男の原動力だった。
「舐めるなよ、他人の国で……!」
怜はコンテナを蹴り、雨の降る開けた空間へとあえて身を晒した。敵の意表を突く前傾姿勢でのスプリント。
スライディングで水飛沫を上げながら、最も近くに迫っていた工作員の足首を撃ち抜く。悲鳴を上げて体勢を崩した敵の懐に潜り込み、その腕を掴んで強引に盾にした。
直後、味方ごと怜を蜂の巣にしようと放たれた銃弾が、盾にされた工作員の肉体に次々と吸い込まれていく。
怜はその反動を利用して敵のサブマシンガンを奪い取ると、残る三人へ向けてフルオートで掃射した。
一人が額を撃ち抜かれて崩れ落ちる。しかし、反撃はそこまでだった。
死角に回り込んでいた最後の一人が、怜の脇腹を狙って引き金を引いた。
鋭い熱が、怜の左脇腹を掠めた。
鮮血が舞い、強い衝撃に怜の身体がアスファルトを転がる。致命傷ではないが、機動力は確実に削がれた。
仰向けに倒れた怜の視界に、ゆっくりと銃口を向けて近づいてくる二人の工作員のシルエットが映る。
万事休す。
だが、怜の目は死んでいなかった。彼は痛みに顔を歪めながらも、視線だけを横へ向けた。
そこには、コンテナの隅で膝をつき、自身を見つめる黒髪の少女がいた。
彼女は生きている。それだけで、自分の行動に後悔はなかった。
――その時、少女の内部で「世界が反転」した。
『警告(WARNING)。生体ユニット損傷率38%。戦闘継続困難。』
『自己防衛プロトコル……エラー。機能不全。』
紅華の疑似神経系には、全身の激しい痛覚信号と、致命的なまでの演算リソースの不足が警告表示として赤く点滅していた。
本来なら、彼女はここで活動を停止するか、自爆シーケンスに移行するよう設計されている。
だが、彼女の視覚センサーは、自らを庇い、血を流して倒れた見ず知らずの青年の姿を捉えて離さなかった。
中国軍の人間ではない。彼女を「兵器」として確保しようとする者でもない。
彼は純粋に、自分という「個」を救うためだけに命を賭けた。
『未知のロジックを検出。』
『開発者権限による暗号化ブロックへのアクセス……承認。』
それは、彼女の生みの親である博士が、軍の目を盗んで最深部に仕込んでいたブラックボックスだった。
兵器として作られたこの子が、いつか本当の愛と他者の痛みを理解した時。そして、この子を心から守ろうとする「誰か」が現れた時にのみ開かれる、禁断の扉。
『――条件クリア。最終起動フェーズ【守護者のフェーズ】、ロック解除。』
『対象個体【月城 怜】をマスターとして生体登録。』
『演算リミッター、全解除。因果律ハッキング(マジック・エンジン)、起動。』
紅華の瞳孔が、人間のものではあり得ない幾何学的な紋様へと変化し、淡い紅色の光を放ち始めた。
彼女の電子頭脳の中で、途方もない量の数式が光の奔流となって駆け巡る。それは世界そのものを構成する物理法則のソースコードだった。
「……何だ?」
トドメを刺そうとしていた工作員が、異変に気づいて銃口を紅華へ向けた。
引き金が引かれる。秒速四百メートルで放たれた凶弾が、紅華の眉間へと迫る。
しかし――弾丸は彼女の肌に触れる数ミリ手前で、まるで目に見えない壁に衝突したかのように空中で完全に静止した。
工作員たちは驚愕に目を見開いた。
物理法則が、完全に無視されている。
紅華はゆっくりと立ち上がった。彼女の肩口にあった銃創の細胞が異常な速度で結合し、一瞬にして傷が塞がっていく。
「我が主に、これ以上触れさせない」
それは、機械的な合成音声ではなく、怒りと悲哀、そして強烈な愛情を帯びた「人間」の声だった。
彼女が静かに右手を振るう。
それだけで、空中で静止していた弾丸が、飛んできた軌道をそのまま逆行し、撃ち放った工作員の眼球を正確に貫いた。
声にならない絶叫。
残った最後の一人がパニックに陥り、狂ったようにサブマシンガンを乱射する。
しかし、紅華の瞳の中で世界を書き換える数式が走った瞬間。工作員の持つ銃の内部構造の因果律が『暴発する状態』へと強制的に書き換えられた。
弾丸が銃身の中で爆発し、工作員の両腕を吹き飛ばす。
血飛沫が舞う中、紅華は空間そのものをスキップしたかのように瞬時に敵の眼前に移動した。
その細く白い手が、崩れ落ちる工作員の頭部に触れる。
『質量加速』
彼女が唇の中で数式を紡ぐと同時、無慈悲な不可視の衝撃波が工作員の頭部を弾け飛ばし、後方のコンテナをひしゃげさせた。
静寂が戻った。
雨音だけが、血の匂いを洗い流すようにアスファルトを叩き続けている。
監視カメラは全て沈黙し、広大な貨物ターミナルに生き残ったのは、倒れ込む怜と、返り血を浴びて静かに佇む紅華だけだった。
紅華はゆっくりと振り返り、怜のもとへ歩み寄る。
その足取りは先ほどまでの冷徹な死神のそれではなく、不安げに主の安否を気遣う、一人の不器用な少女のものだった。




