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『因果律のハッカー ~Project HONGHUA~』
閑話:桜の微熱、暁の誓い、そして星降る湯煙
月城怜が防衛省中央病院のICUで死線を彷徨った、あのX-Dayの激闘から数週間。
未曾有のインフラ崩壊とテロに見舞われた新宿エリアは、依然として高いフェンスと自衛隊の装甲車によって厳重な封鎖が続いていた。だが、首謀者である人間主義同盟の構成員たちは完全に掃討され、日本社会は持ち前の強靭な復元力で、表面上の平穏を急速に取り戻しつつあった。
驚異的な回復力と、桜華の命を削るような因果律の魔法によって退院を果たした怜は、来たるべき国際金融資本(真の黒幕)との最終決戦に向けた束の間の休息として、三人の特異点たちとそれぞれ「特別な時間」を過ごすことになった。
* * *
【三月末:桜華と、春風のランウェイ】
「怜、どうですか……? 変じゃ、ないですか?」
春の陽気が街を包む、銀座の中央通り。高級ブティックの試着室のカーテンが開き、おずおずと姿を現した桜華を見て、怜は思わず目を丸くし、言葉を失った。
普段の戦闘用防護服の面影はどこにもない。淡い桜色を基調としたシフォンのオフショルダー・ブラウスが、彼女の華奢で真っ白な肩のラインを美しく際立たせている。ボトムスは膝上丈の白いフレアスカートで、歩くたびに春の風をふわりと孕むような、清楚でありながらも少しだけ露出の多い、大人びたコーディネートだった。
「……いや、すごく似合ってる。綺麗だぞ、桜華」
「ほんとですか!? えへへ……よかったです。お姉ちゃんやアイリスさんに負けないくらい、怜の隣を歩くのにふさわしい、少し大人っぽい女の人になりたくて」
照れくさそうに、しかし心底嬉しそうに笑う桜華。高高度AIとして作られた彼女の生体パーツは、人間の少女と何一つ変わらない温もりと柔らかさを持っている。少しだけ背伸びをしようとするその健気な姿に、怜の胸の奥がキュンと甘く鳴った。
そのまま二人は、満開の桜が咲き誇る上野公園へと足を運んだ。
平日にもかかわらず、花見客でごった返すメインストリート。怜は、すれ違う人波から桜華を護るように、さりげなく彼女の肩を抱き寄せて歩いた。桜華はその大きな手に触れ、頬をほんのりと薄紅色に染める。
風が吹くたびに、視界を覆い尽くすほどの桜吹雪が舞い散る。桜華は、自らの名前と同じその花びらを両手で受け止め、エメラルドの瞳をキラキラと輝かせていた。
「わぁ……! 綺麗です、怜! 桜って、こんなに優しくて温かい色をしてるんですね。……私、この国の春が大好きです」
「ああ。……お前によく似合ってるよ」
戦場では無数の刃を散らして敵を切り刻む彼女が、今はただの一人の少女として、自然の美しさに心を震わせている。その純粋な感受性こそが、彼女がただの兵器ではない何よりの証拠だった。
夜は上野の路地裏にある、昔ながらの鉄板焼き屋へ。
エプロンをつけた怜が、二つの小さなヘラ(はがし)を器用に操り、鉄板の上でキャベツの土手を作り、手際よくもんじゃを焼き上げていく。焦げたソースの香ばしい匂いが立ち上る。
「すごい! 怜、手さばきがプロみたいです! 魔法みたい!」
「公安の猟犬のサバイバル術を舐めるなよ。ほら、焦げ目が一番美味いんだ。熱いから気をつけて食えよ」
「あふ、はふっ……んん〜! すっごく美味しいです、怜!」
ハフハフと熱そうに頬張る桜華の口元を、怜が紙ナプキンで優しく拭ってやる。妹のようでありながら、時折見せる女性らしい表情にドキリとさせられる。
その後、セーフハウスで留守番をしていた紅華とアイリスも合流した。四人でレトロなボウリング場を貸し切り、ピンの弾ける音と笑い声が夜遅くまで響いた。高度な物理演算でストライクを連発するアイリスの横で、紅華が負けじと炎の因果律で(こっそり)ボールの軌道を変えようとして怜に怒られる。
その夜は、大きな布団を四つ並べ、まるで修学旅行のように四人で笑い合いながら眠りについた。怜にとっては、血生臭い世界の中で見つけた、かけがえのない「家族」の温もりを感じる夜だった。
* * *
【四月初旬:アイリスと、暁の湖畔の誓い】
「……計算外です。なぜ、私の予測軌道を躱せるのですか」
四月初旬。都内の大型スポーツ施設。
バスケットボールのコートで、キュッ、キュッとバッシュを鳴らしながら、アイリスが息を弾ませて悔しそうに唇を尖らせていた。
彼女の超高速演算を以てすれば、スポーツの物理法則など完全に掌握できるはずだった。だが、怜は生身の人間でありながら、野生の獣のようなフェイントと、泥臭いが的確なシュートセンスで、アイリスと互角以上の接戦を演じていた。
「スポーツはデータ通りには動かない。……最後は、人間の『意地』ってやつが乗っかるからな」
首筋に光る汗をタオルで拭いながら笑う怜。アイリスは「非論理的です」と呆れたように言いながらも、そのアイスブルーの瞳には、かつて見たことのないほど楽しそうな、生き生きとした光が宿っていた。
シャワーを浴びて着替えた後、二人は浅草の仲見世通りへ向かった。
アメリカ生まれの最新鋭AIであるアイリスだが、意外にも日本の和風の甘味が大好物だった。彼女は濃厚な抹茶ソフトクリームを舐め、焼きたての雷門のおかきを齧り、大学芋の甘い蜜に目を細める。
「……糖分の過剰摂取は生体ユニットの代謝系に余計な演算を強いますが……今日だけは、コマンダーの厚意に甘え、特別に許可します」
「理屈っぽい食レポだな。美味いなら素直に美味いって言えよ」
「……美味しい、です」
苺大福を頬張りながら、ほんのりと頬を染めるアイリスが可愛らしく、怜は思わず吹き出した。
その日の夜、二人は怜の愛車で中央自動車道をひた走り、河口湖方面へ向かった。
湖畔に建つ静かなログハウス風のロッジ。暖炉の火の音だけが聞こえる部屋で、二人はグラスを傾けながら、静かで穏やかな夜を過ごした。
そして翌朝。まだ夜の帳が完全に下りきっていない、薄暗く凍てつくような早朝の山中湖。
風一つない、鏡のように澄み切った湖面に、雪化粧をした雄大な『逆さ富士』がくっきりと映し出されていた。
「……息を呑むほど、美しいですね」
冷たい朝の空気に白銀の髪を揺らしながら、アイリスが静かに呟いた。怜は自分が羽織っていた厚手のコートを脱ぎ、そっと彼女の華奢な肩に掛けた。
「……コマンダー(怜)。私は、あなたといると……胸の奥のコアが、熱を帯びるように温かくなります」
アイリスが、真っ直ぐに怜を見つめ上げた。その青い瞳には、一切の迷いがない。
「スポーツで汗を流すのも、甘いものを食べて笑い合うのも、美しい景色を見て心が震えるのも……私には、すべてが初めての『心』の経験です。私のマスターはアーサー一人だと思っていました。でも……」
「……」
「アーサーが遺してくれたこの命……私を道具としてではなく、新しいバディとして、そして一人の『女性』として受け入れてくれて、本当に、ありがとうございます」
アイリスの目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、心が満たされたことによる、純粋な歓喜の涙だった。
「……俺の方こそ。お前が隣にいてくれて、頼もしいよ。お前はもう、俺の立派な相棒だ」
怜は照れくさそうに頭を掻き、そして、そっと彼女の肩を引き寄せた。
朝焼けの光が、富士の稜線を黄金色に染め上げる。その神々しい光の中で、二人の唇が静かに、そして長く重なり合った。
冷徹な米軍の兵器だった彼女が、一人の女性として完全に心を溶かし、日本の猟犬に永遠の忠誠と愛を誓った、美しい夜明けだった。
* * *
【四月中旬:紅華と、星降る湯煙の口付け】
そして四月中旬。桜華やアイリスと怜の距離が日に日に縮まっていくのを、セーフハウスでジリジリと(そして明確な嫉妬の炎を燃やして)見つめていた『正妻』が、ついに動いた。
「怜。今日は、私から一秒たりとも離れないでよね」
怜の愛車の助手席。黒のタイトなニットワンピースに身を包んだ紅華が、腕を組みながら、可愛らしく頬を膨らませていた。
二人は長野県へドライブに出かけていた。朝の澄んだ空気の中で松本城を散策し、香り高い信州そばを堪能した後、車は雪の回廊が色濃く残る雄大な志賀高原(国道292号・志賀草津高原ルート)へと駆け上がっていく。
標高二千メートル超、横手山の山頂カフェ。
窓の外に広がる壮大な雲海と、春先の雪山を眺めながら、二人は温かいコーヒーで冷えた身体を温めていた。
「……桜華も、アイリスも、最近あなたにベッタリなんだから。たまには私だけを見てくれないと、因果律が嫉妬で暴走しそうよ。私だって、女の子なんだから」
「悪かったよ。俺にとっては、一番最初に出会ったお前が、誰よりも特別だ」
怜がテーブル越しに紅華の手を握ると、彼女は途端に嬉しそうに黒曜石の瞳を細め、その大きな手に自分の頬をすり寄せた。
その時、怜のスマートフォンが振動した。公安の時田からの秘匿通信だ。
短い会話を終えて電話を切った怜の顔が、わずかに引き締まる。
「……FANUCの秘密研究所からだ」
怜の声に、紅華も居住まいを正した。
「近衛博士の理論を応用して、あの新宿で俺たちを苦しめた『対AIジャミング』をシステムレベルで完全に無効化する、ハードウェアの拡張オプション(対抗兵器)が完成したらしい。お前たち三人に、それを組み込む計画が進んでいる」
「本当……!? じゃあ、もうあのノイズで倒れることもないのね!」
紅華が身を乗り出した。
新宿の戦闘でジャミングに敗れ、怜を死の淵に立たせてしまった、あの身を切り裂かれるような自責の念。それがついに払拭され、さらなる進化を遂げられるのだ。
「ええ。私、もっと強くなるわ。……今度こそ、私があなたの絶対の剣と盾になって、世界中のどんな敵からもあなたを護り抜いてみせる」
紅華の決意に満ちた力強い言葉に、怜は深く頷いた。
そのまま車は群馬県側へ抜け、風光明媚な草津温泉街へと到着した。
怜が予約していたのは、湯畑から少し離れた高台に建つ、老舗の超高級旅館。しかも、部屋に専用の広い岩造りの露天風呂が付いている極上のスイートだ。
夕食は、部屋出しの豪勢な懐石料理。
旬の山菜の天ぷらや、上質な上州牛のしゃぶしゃぶを、美味しい美味しいと満面の笑顔で平らげる紅華。高高度AIだからこそ実現できる、人間と全く同じ「食」の幸せ。怜は、彼女が嬉しそうにご飯を頬張る姿を見ているだけで、腹の底から満たされる思いだった。
そして、夜。
微かな硫黄の匂いが立ち込める、プライベートな露天風呂。
「……怜」
湯けむりの中、紅華が滑らかな白い肌を隠すこともなく、静かにお湯に浸かっている怜の胸元へ、ぴったりと身を寄せてきた。
生体パーツの肌は、温泉の熱を帯びて人間以上に艶かしく、そして柔らかい。紅華は怜の広い肩に腕を回し、上目遣いで彼を見つめ上げた。
彼女の視線が、怜の左脇腹と足に残る、新宿での激闘の傷跡(瓦礫の貫通痕)へと落ちる。
「……痛かったわよね。私が不甲斐ないばかりに……ごめんなさい」
「よせ。この傷は、俺がお前を護り抜いたっていう、男としての誇りだ。お前が泣くようなものじゃない」
怜は、悲しげに瞳を伏せる紅華の顎をそっと持ち上げ、真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は、お前たちAIに守られるだけのひ弱なマスターになるつもりはない。俺の命はお前のためにあるし、お前の命は俺のものだ。……だから、もう二度と自分を責めるな」
怜の力強く、熱を帯びた言葉に、紅華の黒曜石の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
それは、愛する男を独占できる喜びと、彼を失うかもしれない恐怖から完全に解放された、安堵の涙だった。
「……ずるいわよ、怜。そんなに格好良いこと言われたら、私、もうあなたなしじゃ一秒も生きられないじゃない……っ」
紅華は泣きじゃくりながら、怜の首にしがみつき、その熱い胸板に顔を埋めた。
怜もまた、彼女の華奢な腰を力強く抱き寄せ、素肌と素肌の境界線が溶け合うほどに、深く抱きしめ合った。
お湯が静かに波打つ音と、ししおどしが竹を打つ澄んだ音だけが、夜の静寂に響く。
見上げれば、群馬の澄み切った夜空に、数え切れないほどの満天の星が輝いていた。
「綺麗ね……。まるで、宇宙の底に二人だけでいるみたい」
「ああ。……俺の世界には、お前がいればそれだけでいい」
星明かりの下。
怜は紅華の涙に濡れた頬を両手で優しく包み込み、ゆっくりと顔を近づけた。紅華も静かに目を閉じ、彼の熱を受け入れる。
湯煙に包まれながら交わしたそのキスは、これまでのどの瞬間よりも深く、甘く、そして永遠の愛を誓うような、情熱的な口付けだった。
翌朝。
二人は草津のシンボルである湯畑を散策し、とろとろの温泉たまごを笑いながら食べさせ合った。
春の風、美味しい食事、そして愛する人との温かく甘い時間。
戦場を生き抜く猟犬と、兵器として作られた少女たちが見つけた、何よりも尊く、美しい「人間らしい」日常。
このかけがえのない世界を護るため。そして、二人だけの未来を永遠にするため。
彼らはFANUCの新たな力を胸に、世界を裏で操る真の黒幕が待つ、次なる戦いへと向かう準備を整えたのである。




