エピローグ 融解
2002年4月。ロシア、サンクトペテルブルク。
春の陽気が、ネヴァ川の氷を解かし始めていた。
古びたアパートの一室で、ニコライ・ヴォルコフは窓際の安楽椅子に深く沈み込んでいた。
82歳になった。
かつてトラクターを修理し、ライフルを握ったその手は、今では茶色の染みが浮き、小刻みに震えている。パーキンソン病のせいではない。医者は「神経性のものだ」と言ったが、ニコライは知っていた。
これは、あの森の冷気が、骨の髄にまで染み付いて離れないからだ。
テーブルの上には、飲みかけのウォッカと、今日の新聞が置かれている。
ニコライは、新聞の国際面にある小さな記事を、もう何度も読み返していた。
『フィンランドの英雄、シモ・ヘイヘ氏、死去。96歳』
記事には、晩年の彼の写真が添えられていた。
好々爺とした穏やかな表情。しかし、その左の顎は大きく歪み、引きつっていた。
「……生きて、いたのか」
ニコライのしわがれた声が、部屋の空気を揺らした。
60年以上もの間、ニコライは自分が「少年を殺した」と思い込んで生きてきた。
あの時、炸裂弾で顔を吹き飛ばした感触。雪を染めた鮮血。その悪夢に、幾度となくうなされてきた。
その後、ドイツとの大祖国戦争も戦い抜いたが、どんな激戦地よりも、あのフィンランドの静かな森での一瞬こそが、彼にとっての本当の戦争だった。
だが、彼は生きていた。
あの地獄のような傷を負いながら、そこからさらに60年もの時を生き抜き、畳の上で天寿を全うしたのだ。
ニコライの目から、涙が溢れ出した。
それは、安堵の涙だった。
「お前も……頑固な野郎だな」
彼は知っていた。あの傷がどれほどの痛みをもたらしたかを。
そして、その痛みと共に生きることが、どれほどの精神力を必要としたかを。
自分が撃った弾丸は、彼を殺しはしなかった。ただ、彼に「戦士の休息」を与え、歴史という舞台から降ろしただけだったのだ。
ニコライは震える手でウォッカのグラスを手に取った。
不思議と、指の震えが少しだけ収まっている気がした。
彼と自分は、敵同士だった。
言葉も通じず、殺し合うしかなかった。
だが今、この広い世界の中で、あの「3月6日の朝」の真実を共有しているのは、死んだ彼と、生き残った自分だけだ。
奇妙な、しかし断ち切れない絆が、そこにはあった。
「乾杯だ。白い幽霊」
ニコライは誰もいない空間に向かって、グラスを掲げた。
「俺たちの戦争は、これでようやく終わりだ」
強い酒が喉を焼き、胃の腑に落ちていく。
それは、長く凍りついていた心の氷を、ゆっくりと溶かしていく熱さだった。
窓の外では、雪解け水が軒先から滴り落ちていた。
長い冬が終わる。
歴史の陰に埋もれた、二人の男の物語もまた、静寂の中に溶けて消えていった。
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また、本作は前作で描いた
シモ・ヘイヘの戦いを描いた物語と対を成す物語です。
是非、時間がございましたら、もう一つの視点(白き死神)での物語も読んでみてください。
『白き死神の挽歌 ——極寒のコッラ、五〇五の墓標』
https://ncode.syosetu.com/n4792ls/




