プロローグ:悪夢の終焉、あるいは始まり
本作は、前作で描いた、
シモ・ヘイヘの戦いを描いた物語と対を成す物語です。
『白き死神の挽歌 ——極寒のコッラ、五〇五の墓標』
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指の感覚は、とっくに失われていた。
凍傷で黒ずんだ指先が、ライフルの引き金に触れているのかどうかさえ、目で見なければ分からない。
だが、震えだけは止まらなかった。寒さのせいではない。身体の芯から湧き上がる、原初的な恐怖のせいだ。
1940年3月6日、午前9時過ぎ。
フィンランド南東部、ウルリスマー地区。
俺の名前はニコライ。ソビエト連邦赤軍の一兵卒だ。
だが、今この瞬間、階級も、国籍も、名誉も、何の意味も持たなかった。
俺はただの、怯えきった獣だった。
「進め! 止まるな! 止まる奴は俺が撃ち殺すぞ!」
背後で政治将校が怒鳴り散らしている。彼は安全な塹壕の中から、トカレフ拳銃を俺たちの背中に向けていた。
前へ進めばフィンランドの悪魔に殺される。後ろへ下がれば味方に殺される。
ここにあるのは、二種類の「死」だけだ。俺たちはその狭間で、雪を血で汚すための肉袋に過ぎない。
あたりは轟音に包まれていた。
味方の重砲が森を耕し、敵の機銃が唸りを上げる。
俺は泥と雪にまみれた湿地帯を、這うようにして進んでいた。
横にいた戦友のイワンが、不意に前のめりに倒れた。頭がない。
悲鳴を上げる間もなく、今度は右側のセルゲイが胸を押さえて崩れ落ちる。
どこだ?
どこから撃っている?
俺は必死に顔を上げ、前方の茂みを凝視した。
白い雪。黒い木々。灰色の空。
色彩のない世界。
――いた。
40メートルほど先。倒木の陰から、そいつは現れた。
真っ白な外套を頭から被り、顔の半分を防寒マスクで覆っている。
人間ではない。あれは、俺たちが焚き火を囲んで震えながら噂していた、「白い死神」そのものだ。
時間が凍りついた。
そいつの構える銃口が、まるでスローモーションのようにこちらを向くのが見えた。
黒い、底なしの穴。あの中に、俺の死が詰まっている。
逃げられない。
叫ぶこともできない。
俺の心臓は、恐怖で破裂しそうだった。
(死にたくない、死にたくない、死にたくない!)
俺の手には、モシン・ナガン小銃が握られている。
装填されているのは、国際条約で使用が禁じられているはずの「炸裂弾(爆発弾)」だ。だが、そんなことはどうでもいい。相手は悪魔だ。悪魔を殺すには、悪魔の武器が必要なんだ。
思考よりも早く、生存本能が俺の身体を動かした。
狙いなど定めていない。
ただ、目の前の「死」を拒絶するためだけに、俺は銃口を突き出し、感覚のない指で引き金を絞った。
――ドォン!
肩に強烈な反動が走る。
ほぼ同時に、前方の白い影の顔面で、何かが弾けるのが見えた。
赤い飛沫。
砕け散るマスク。
死神の身体が、まるで糸の切れた人形のように後方へ吹き飛んでいく。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。
やったのか?
俺が?
あの、数千人の同胞を葬り去った化け物を?
歓喜はなかった。
湧き上がってきたのは、安堵でも達成感でもなく、吐き気を催すほどの虚脱感だった。
雪の上に広がる赤い染みを見つめながら、俺は自分が犯した罪の重さに、ただ震えていた。
神殺し。
俺は今日、伝説を殺したのだ。
だが、その時の俺は知らなかった。
死神は死んでいなかったことを。
そして、この一発の銃弾が、俺の人生に永遠に消えない呪いを刻み込むことになることを。
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