第二十六話 「な、何でそんな目で俺を見るんだ」
火照った顔を冷ましながら廊下を進んでいくオリヴィア。
近頃、やっと手を繋ぐことには慣れてきたが、まさかそれ以上のことがあるとは想像もしていなかった。
無意識に噛まれた首元に触れる。そして先ほどのことを思い出し、また顔に熱が集まってくるのを感じた。
心ここにあらずなオリヴィアだったが、ふと、前から誰かが歩いてきていることに気がついた。
ここはノアの部屋がある廊下だ。歩いているとすればドラゴン様の誰かだろう、とオリヴィアが視線を送ると、向かってきているのはなんとリアムだった。
「リアム? どうしてここにいるの?」
この道の先にあるのはノアの部屋だけだ。オリヴィアを除いた使用人たちは部屋への入室はおろか、最上階への立ち入りさえ禁止されているはず。
オリヴィアが前から歩いてくるリアムに気づいたのとほぼ同時に、リアムもオリヴィアの存在に気がついていた。
このような夜更けに、王の部屋から出てきたと思われるオリヴィア。
リアムの表情は険しく、心にさざ波が打ち寄せてくるのを感じていた。
「リ、リアム?」
怖い表情で向かってくるリアムに、恐る恐る声をかけたオリヴィア。
その声が聞こえていないのか、リアムはその歩調を緩めない。
オリヴィアの至近距離まで近づいてから、リアムはやっと口を開いた。いや、開こうとしたその瞬間、リアムの目にはオリヴィアの首元が映っていた。
白く滑らかな肌に残る赤い跡は、嫌でも視線を集めてしまう。
「おい! これどうしたんだ!?」
オリヴィアの首元に残る綺麗な歯型の跡に、リアムは声を荒げる。
焦ったオリヴィアは思わず、それを手で隠そうとした。
「あ、違うの。これは……痛いっ」
リアムがオリヴィアの腕を掴み上げた。力の加減を忘れたリアムの指が、オリヴィアの手に食い込む。
オリヴィアは痛みを訴えるが、リアムの力は弱まるどころか強くなっていく。
「あいつにやられたのか!?」
「ちょっと、リアム!」
リアムのいう『あいつ』とは、ノアのことだ。王城の使用人たちがドラゴンを敬称も付けずに呼ぶなど、あってはならないこと。
オリヴィアは目の前にいるリアムを見て、やはり変わってしまったのだと感じた。
痛みに耐えながらオリヴィアは周囲を見回す。リアムの大声をドラゴンたちに聞かれれば大変なことになる。
「お前はあいつらがどれほど無慈悲で、残酷で、冷徹なのか分かっているのか!?」
「何を言っているの?」
手の力を緩めることなく、リアムは激情のままに怒りをぶつける。
オリヴィアにはリアムの言っていることが理解できなかった。
「逃げるんだ! 安全な場所がある!!」
掴んでいたオリヴィアの手を、リアムは力ずくで引っ張り出した。
「痛い! やめて!」
痛みと戸惑いの最中、オリヴィアは自分の知らないリアムに恐怖を覚え、必死にリアムの力に抵抗する。
「何事だ」
聞き慣れた低い声が耳元で響く。
激しい痛みがふっと消え、代わりに背後から温もりに包まれる。
オリヴィアは目で見ずとも、その声、その温かさ、その香りだけで心から安心させられてしまうのだった。
「オリヴィアを離せ!」
一瞬前まではすぐ傍にいたはずのオリヴィアが、今はノアの腕に包まれている。
リアムは何の躊躇いもなく、ノアへと突っ込んでいくが、以前と同様に、魔法で地面に跪かされてしまう。
本来であれば、オリヴィアはすぐにでもノアを止めに入っていただろう。
だが、今回に限っては恐怖から解放された安心感の方が大きく、自分を守ってくれたノアを止めることはできなかった。
それに、呼吸が止まるほどの威力で押さえつけていた前回と比べると、手加減をしているようだった。
リアムは必死に重力に抵抗するが、それでもやはりノアの魔法には勝てない。何とか顔を上げ、前へと視線をやる。
重力に耐えながら上げた視界に映るふたつの影。
オリヴィアを奪い取り、その腕に閉じ込める男と、その男を見つめるオリヴィア。その表情が前とは違うことにリアムは気が付いた。
――信頼。
オリヴィアの目には信頼の色がある。異種族であるノアに対する疑念を微塵も感じさせない。完全に心を許しているのだとひと目に分かる、そういう目をしていた。
リアムは懸命に重力に抗っていたが、もう顔を上げていられなかった。重力のまま下を向き、奥歯を噛みしめる。床についた手を、血が滲むほど握りしめる。
「クソオオオオオオオオオ!!」
突然叫びだしたリアムを、ノアとオリヴィアは見つめる。
リアムは下を向いたまま、何とか力を振り絞り、ポケットに手を突っ込む。
その手がポケットから出された瞬間、オリヴィアの視界は白くもやが立ち込めたように濁った。
「ケホッケホッ」
もやの正体は何かの粉だった。オリヴィアはそれを思い切り吸い込み、口の中に入った粉にむせる。
「ぐっ……」
オリヴィアの耳に、ノアの苦しそうな声が届いた。背後に感じていた体温が離れると同時に、後ろで膝をついた音がした。
ノアの魔力が弱まり、重力から解放されたリアムが立ち上がる。
「オリヴィア! 行こう!」
リアムがオリヴィアへと手を差し出す。その目はどこか泣き出しそうな、今にも溢れ出しそうな感情を何とか堰き止めている。そんな必死さが見えた。
それでもオリヴィアはリアムへ背を向ける。
「ノア!!」
振り返ったオリヴィアは、崩れ落ちているノアに寄り添う。
苦しそうなノアはくぐもった声をあげるばかりで会話もできそうにない。辛そうな顔に玉のような汗が浮かぶ。
「ノア! ノア!!」
差し出した手を掴んでくれると信じていたのに、オリヴィアは自分じゃない男に駆け寄っていった。その後ろ姿を見たリアムの腕からは力が抜け、だらんと垂れ下がる。
「何をしたの!」
ノアを支えながら、リアムを睨むオリヴィア。その声はリアムを責めているようだった。
「な、何でそんな目で俺を見るんだ」
たじろぐリアムに対し、怒りの色を浮かべるオリヴィアの瞳。
大事な人を傷つけられ、オリヴィアは怒らずにはいられなかった。
「どうしてそいつを庇うんだよ……お前はこっち側だろ!!」
「こっち側ってなに!? そんなものないよ!」
「あるさ! 生まれたときからずっと! 俺たち人間が何をしたというんだ! 何でこんな扱いを受けなきゃならない!?」
リアムが王城中に響くほどの大声を張り上げる。
「リアム……」
オリヴィアは返す言葉が見つからない。




