プロローグ: 墨痕絶命
私は教会の独房を後に、関係者の手で馬車へと押し込まれた。
向かった先の競売場で、私を買ったのは、クラーノ侯爵という人物らしい。
その後、数日間の揺れの果てにたどり着いた目的地――それこそが、私の新たな「収容所」だった。
その邸宅は、周囲の風景から浮き上がるほどに白く、そして美しかった。
外壁に用いられたのは、最高級の白大理石。
石材は、陽光を反射して眩いほどに輝いている。
庭園を彩るのは、赤い薔薇。
薔薇園を通る風がほのかに甘い香りを運んでくる。
邸内へ一歩足を踏み入れれば、天井から吊り下げられた精緻な金の天蓋には、数千個のクリスタルが連なり、煌びやかな光を放つ。
廊下に敷き詰められた絨毯は、極彩色の最高級品だが、私にはそれが、踏みつけられた者たちの執念が凝固した血溜まりのように見えた……。
侯爵は、一度として私の目を見なかった。
彼が求めていたのは私という人格ではなく、私の中を流れる魔力、ただそれだけだった。
「……あ、ああ……もっとだ。もっと注げ……。私を若返らせろ」
夜ごと繰り返されるのは、儀式と呼ぶには卑俗で、暴力と呼ぶにはあまりに事務的な魔力の収奪だった。
私の魔力は、私の意思に関係なく、侯爵の枯れ果てた細胞に「若さ」という名の偽りの潤いを与えていく。
魔力を吸い出されるたび、私の指先は凍りつき、脳の芯は焼けるような熱を帯びた。
私は、自分を「肉体」と思うことをやめた。
自分を、ただの「魔力貯蔵庫」だと定義した。
苦痛を「経費」と、絶望を「減価償却」と呼んだ。
そうしなければ、一晩として正気を保てないほど、侯爵の手は冷たく、空虚だった……。
侯爵が眠りについた後の深夜、私は幽霊のように邸内を歩いた。
私に与えられた唯一の自由。
「数字も読めぬ家畜」と侮っていた侯爵は、私が帳簿に触れることを禁じなかった。
私は、月の光の下でクラーノ侯爵家の「真実」を暴いていった。
領地の農民から絞り上げた税の記録、教会の司教へ贈られた莫大な袖の下、崩壊寸前の不動産投資。
「……見苦しいわ」
指先で数字をなぞるたび、私の頭の中に数字のその先が描かれる。
この男は、自分の老いを止めるために金を使い、その金を作るために未来を売り払っている。
帳簿の上でのクラーノ侯爵家の資産は、すでに内側から腐り落ち、空洞化していた。
(あと数年で、この屋敷の資産は底を突くわね……)
私は、自分の中に逆流してくる「汚れた魔力」さえも計算に組み込んだ。
侯爵から吸い取られる代わりに、私は彼の体内にある「老い」と「澱み」を、微量の魔力に混ぜて少しずつ送り返した。
それは、時間をかけて侯爵を蝕む「毒」となった。
ある冬の日、侯爵が気まぐれに、私に一匹の子犬を買い与えた。
純白の毛並みを持った、まだ温かい命。
「お前も愛でるものがいた方が、魔力の『出』も良くなるというものだ」
侯爵の言葉は、どこまでも私を「生産効率を上げるべき器」としてしか扱っていなかった。
子犬は、冷え切った私の膝の上で、懸命に尻尾を振った。
その無垢な温もりが、私の心の奥底に沈んでいた「私」を、一瞬だけ揺さぶった。
(……温かい。テオの、手のひらみたいに……)
だが、その思考がよぎった瞬間、私の脳裏に「一デナリ」という数字が浮かんだ。
愛着は、判断を狂わせる。温もりは、計算を鈍らせる。
この世界において、感情は「負債」でしかない。
翌朝、子犬は冷たくなっていた。
私が、その小さな喉を自らの手で静かに締め、魔力を流し込んで心臓を止めたのだ。
子犬を庭の隅に埋めながら、私の瞳からは涙一滴すらこぼれなかった。
「……私の帳簿に、不確定要素はいらない……」
私は、自分の中に残っていた最後の「私」を、自らの手で清算した。
その時、私の魔力は不必要なものを切り捨てる、虚無を帯びた黒の波動へと変質した──。
◇
二十歳を迎えた私の美しさは、すでに『フローレンス』という最高評価さえも超越していた。
それは見る者すべてが息を呑み、抗うことのできない魅惑的な光を放つほどに完成しきっていた。
対照的に、侯爵は急速に衰えていた。
不自然な若さを保っていた皮膚は、今や土気色に変色し、鏡を見るたびに彼は怯えた。
「もっとだ……イゾルデ、もっと魔力を! なぜ効かない! なぜ私がこんなに……!」
侯爵は気づいていなかった。
彼が、私から奪い取ってきたと思っていた魔力は、すべて私が計算した通りの「負の資産」に過ぎなかったことを。
彼の体内には、私が送り込み続けた「負債(毒)」が、限界まで積み上がっていた。
「侯爵、これを……」
私は、もがき苦しむ侯爵の寝台の横で、静かに一冊の帳簿を開いた。
それは侯爵が記したものではない。
私が、自分の血と涙と魔力を「出納」してきた、復讐の記録。
「あなたが浪費した晩鐘の数、五万三千回」
「あなたが踏みにじった私の尊厳……」
「あなたが殺したテオの命、一デナリ……」
「――さあ、支払いの時間よ。利息を含めた総額を、今すぐあなたの『命』で清算してもらうわ」
私が帳簿を閉じ、指先を鳴らす。
『——墨痕絶命』
その瞬間、侯爵の足元から粘り気のある黒い魔力が、まるで帳簿を台無しにする「ぶちまけられたインク」のように広がり、彼の体を侵食し始めた。
侯爵の肌には、文字を書き潰すような黒い幾何学紋様が急速に走り、その輪郭を闇に溶かしていく。
それは魔法というより、この世という帳簿から彼の存在を「黒塗り」で塗り潰していく作業だった。
侯爵の絶叫が、天井に吸い込まれていく。
私の瞳の中で、世界はすべて「零」へと向かう数字の羅列に変わっていた……。
どうでしたでしょうか?
とりあえず、プロローグの2話を公開しておきます。
この作品は、カクヨムで掲載してた『残響の聖女』の改稿版です。
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