↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

プロローグ:陽だまりの底で

 教会の孤児院。


 世間一般の目には、そこは神の「慈愛」に満ちた聖域として映っていたことだろう。


「神に愛される子は、肌を清く保ち、心を淑やかにせねばなりません」


 年老いたシスターの柔らかな言葉を信じ、幼い日の私は祈りと、そして「魔力を宿すための特別な儀式」に明け暮れていた。


 私の体の奥底では、熱を帯びた魔力が、静かに、しかし確かな熱量で脈動を続けていた。


 過酷な修行の日々。その中で唯一、私の心を繋ぎ止めていたものがある。


 ――少年、テオとの約束だった。


「いつかここを出て、海を見よう」


 教会の裏庭、洗濯物が白い旗のように風にたなびく場所。


 そこだけが、過酷な戒律に縛られた「聖女」ではなく、ただの「少女」に戻れる唯一の聖域だった。


 シーツを干す風の中で交わしたその約束こそが、私にとって世界で唯一の「価値」だった。


 ある日の昼下がり。


 籠いっぱいのシーツを抱えた十四歳の私は、木陰で古い何かを広げている少年に声をかけた。


 雑用係らしく煤けた顔を上げ、テオは気恥ずかしそうに笑う。


「これ? 港町の取引の帳簿だよ。司祭様が捨てようとしてたのを拾ったんだ。ほら、ここを見てよ。港に揚った魚の数と、果樹園から届いたリンゴの重さが、ここで一対一で交換されてる。不思議だろ?全然違うもの同士が、一つの数字で結びついてるんだ」


 私はシーツを干す手を止め、彼の隣に腰を下ろした。


 毎日の魔力を通わせるための薬浴のせいで、私の肌からはほんのりと甘い花の香りが漂っている。


「数字なんて、ただの記号じゃない。私は嫌い」


「違うよ、イゾルデ。数字はね、『正しさ』なんだ。誰かが嘘をついても、帳簿は嘘をつかない。ニシンを奪い取れば、必ずどこかの数字が少なくなる。この世界がどれだけ不公平でも、数字の上ではみんな『等価』なんだよ」


 テオは熱を帯びた瞳で、水平線の先を指差した。


「いつか、ここを出よう。海へ行くんだ。そこで僕は、君が笑っていられる場所を作る。そのために必要なことは、僕が全部引き受けるから」


 その言葉の意味を、当時の私は正確には理解していなかった。


「約束よ、テオ。私と一緒よ。目的地はあなたが決めてね。他の誰でもなく、あなたが」


 私が差し出した小指に、テオが自分の小指を絡める。


 その温もりを、私はまだ知っていた。


 すべてが残酷な日常へと塗り潰される前の、あまりにも遠い、はじまりの日の記憶として――。


◇


 ――少女としての時間を断ち切るように、私という存在を、一個の『資産』として計量し直すための、無機質な鐘が鳴り響いた。


 テオと指を絡めた昼下がりから、わずか数刻後。


 私は、窓一つない石造りの「聖礼典室」に立たされていた。


 そこには、慈悲深い司教も、優しいシスターもいなかった。


 いるのは、蝋燭の炎に照らされた、脂ぎった顔の老司祭と、黒いローブを着た男たちだけだ。


「脱げ。イゾルデ……」


 老司祭の声は、石造りの聖礼典室に乾燥した砂のように響いた。


 震える手で服を脱ぎ、冷たい石床に裸足で立つ。


 昼間、テオと話していた時の「心」が、薄い皮膚一枚の下で悲鳴を上げていた。


 革の手袋をはめた黒いローブ男が、その手で私の顎を掬い上げ、品定めするように左右に振る。


 「肌の仕上がりは上々。薬浴の浸透も深く、魔力の脈動が表皮のすぐ下まで来ている。これならば、すぐに枯れることはないでしょう……」


「魔力量はどうだ? 『聖女』としての『質』を期待している顧客は多い」


 別の男が、家畜の歯を見るような手つきで私の体に触れる。


 私は奥歯を噛み締めた。


「魔力量は申し分ないかと」


「見目も良い。初期投資額の百倍は見込めるでしょう」


「来月の『競売』の目玉にしましょう。ただ、一点……」


 黒いローブの男が、私の小指を指差した。


 テオと指を絡めた、あの指だ。


「この指に、安物の匂いがついている。雑用係のガキと接触したな?商品に余計な『記憶』は不要だ。出荷までに、この指の『記憶』を消しておけ」


「お待ちくだ……っ!」


 私が叫ぼうとした瞬間、老司祭の太った手が私の頬を打ち抜いた。


「テオ……逃げて……」


 私は、声にならない声を漏らした。


◇


「検品」から三日後。


 私が「出荷」される数時間前。


 教会の地下、汚水が滴る独房。


 そこには、かつて「海を見よう」と笑った少年の面影はどこにもなかった。


「テオ……?」


 私は、出荷用の豪奢な法衣を纏わされた姿で、鉄格子の前に崩れ落ちた。


 中にいたのは、両手足の指をすべて叩き潰され、汚泥に塗れたテオだった。


 テオは腫れ上がった瞼を辛うじて開き、私を見た。


「い……ぞる、で……。ごめん、な……。君を、連れて、逃げる……力、が……」


 テオの震える声は、もう、かつての涼やかな風のような響きはなかった。


「喋らないで……。テオ、お願いだから……!」


「数字、は……正し、い……んだ……。イゾルデ……。僕は、君という……『価値』に、見合う、対価を……払えなかった……。……僕の、命じゃ……足りなかったんだ……」


 背後から靴音が響く。


「時間だ」


 背後から近づいてきた男は、ゴミでも見るかのようにテオの頭に唾を吐きかける。


「テオ! テオ!!」


「こいつは、お前という商品の『価値』を傷つけたために、ここで処分される。お前が泣こうが喚こうが、このガキはここまでだ。お前は、高く売れることだけを考えろ。それが、このガキが唯一、この世に遺した『価値』だ」


 私の中で、何かが音を立てて千切れた。


 悲鳴を上げようとした喉が、急速に冷えていく。


 熱かった涙が、氷のような結晶に変わっていった。


 私は、自分の中に眠っていた「得体の知れない何か」が、黒く、冷たく、静かに脈動し始めるのを感じた。


「一つ、教えて」


 私は、テオの絶望をその瞳に焼き付けたまま立ち上がった。


 その顔には、もう一筋の涙もない。


「この人の命は、いくらで処理されるの?」


「端金だ。一デナリにも満たん」


「そう……」


 テオの瞳から光が消える瞬間、私は彼から教わった「数字」の価値を、自らの魂に刻み込んだ。


 愛は、無価値。


 心は、負債。


 唯一信じられるのは、命を削ってでも積み上げる「数字」だけ……。


 馬車に揺られながら、私は窓の外に広がる、かつてテオが見たがっていた海を一瞥もせずに、頭の中である言葉を反芻する。――数字は平等、と。

カクヨムで投稿していた、『残響の聖女』の改稿版です。

不定期で、ボチボチ投稿しようと思ってます。

よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。