署名する手
島崎一家は再び相談室へ集まった。長男は父の意思を尊重したいと思いながらも、どうしても怖かった。佳代も同じだった。しかし島崎は紙へ自分の希望を書き、治療を受けたいと伝えた。筆圧の弱い文字は読みづらく、それでも最後まで自分で書いたものだった。相談員は一語ずつ確認した。
手術の説明は何度も行われてきた。医学的な危険と術後の殺害を混同せず、分かっていることだけを並べる。久世は治療の成功例を示したが、それを理由に手術を勧める言い方はしなかった。島崎は何度か質問し、答えを聞くたびにゆっくり頷いた。長男は隣でメモを取った。
署名の前、佳代は夫に「本当にいいの」と尋ねた。島崎は長く妻の顔を見て、それから『一緒に話したい』と書いた。佳代は紙を持つ手を震わせた。病気になる前に二人で交わした会話の数を思い出した。くだらない冗談も、旅行の行き先をめぐる口論も、今は遠い場所にある。
相談室の外には、病院の予定表が掛かっていた。島崎はそこへ目を向け、次の朗読会の日を指した。佳代は手術の日程が重ならないか確かめ、息子も一緒に調整した。
長男は最後まで納得したわけではなかった。それでも父の手を取り、自分は術後の暮らしを支えると伝えた。島崎は息子の名前を呼ぼうとし、途中で途切れた。長男は言葉を待ち、頷いた。家族の気持ちが一つになったのではない。違う気持ちを持ったまま、同じ机に座り続けた。
久世は署名を受け取り、手術前に必要な検査の日程を説明した。退室した家族は廊下でしばらく立ち止まっていた。島崎は待合室の時計を見上げ、佳代の手を握る。帰りの列車の時刻を確認するのは長男の役目になった。今は明日の準備をすることから始めるしかなかった。




