開店前の包丁
三橋の食堂には、朝の仕入れより早く常連の魚屋が顔を出した。新しい献立に合う魚が入ったという。三橋は包丁を研ぎ、妻と値段を相談した。病気のころは手を動かす自信がなく、仕入れを決めることすら怖かった。今は客の顔を思い浮かべながら、何を作るか考えられる。
妻は表の黒板へ日替わり定食を書いた。新聞で店を知った人が訪れる日もあるが、二人は大きな宣伝をしなかった。食堂を再開できた喜びと、その後に待つ事件の不安を、客寄せの言葉へ変えたくなかったからだ。店の看板は以前と同じ色で、開店時刻も変えていない。
昼どき、近所の会社員が同僚を連れて来た。味噌汁を飲んだ同僚は「毎日ここで食べたい」と笑った。三橋は注文を取りながら、商売を続けるには仕入れや掃除の仕事も必要だと考えた。今のように働ける日がいつまで続くか分からなくても、店に来る人へ中途半端なものを出すつもりはなかった。
試作した魚の身が少し崩れ、三橋は盛りつけをやり直した。妻は味には問題がないと笑ったが、三橋は客の前へ出す形も大切だと言った。二人で皿を替えて確かめた。
午後には商店街の役員が、秋の催しの出店について相談に来た。妻は無理をしない方がよいと言ったが、三橋はできる範囲で参加したいと答えた。催しまでの準備日数を数え、必要な容器や仕入れを紙に書く。人前で料理を出すのは久しぶりだ。考えるだけで胸が高鳴った。
閉店後、妻が黒板を消していると、三橋は余った煮物を小さな容器へ詰めた。近所の一人暮らしの老人に届けるためだ。妻は無理をしないよう言いながらも、一緒に歩くことにした。商店街の灯が一つずつ消える中、二人は容器を挟んで歩いた。明日の仕込みは、帰ってから相談すればよかった。




