選べない娘
澄江の娘、有馬春菜は、母の古いアルバムを居間へ並べた。幼稚園の遠足、海辺の旅行、亡くなった父との結婚写真。澄江は写真の中の人の顔を指しては正しい名前を言い、次の頁で急に黙った。自分が何を忘れているのかさえ分からない時がある。それを見つめる春菜のほうが、先に涙をこぼした。
「手術を受けたら、お母さんは殺されるんだよ」。春菜は同じ言葉を繰り返した。澄江は受け取った紙を広げ、もう何度目か分からないほど読み直した。「それなら、受けなくても私がどこへ行くか分からなくなるのね」。二つの恐怖は形が違い、比べられなかった。春菜は何も言えず、母の写真を元の箱へ戻した。
母が電話をかけると決めるまで、春菜は職場へ何度も遅刻の連絡をしていた。上司は詳しい事情を尋ねなかったが、休暇の申請に必要な手続きを教えてくれた。春菜は礼を言い、仕事の予定を少し先へずらした。母を支えるために生活を変える人は、自分だけではないと分かっていても、誰かに代わってもらえる用事は少ない。カレンダーには病院の予約だけが大きく記されていた。
その夜、澄江は台所に立ち、味噌汁を作ろうとした。鍋を火にかけたあとで具材を入れたことを忘れ、同じ豆腐を二度切った。春菜が静かに火を止めると、澄江は娘を見て「私は今、何をしていた?」と尋ねた。春菜は答えようとして喉を詰まらせた。母が失う時間は、決断を先延ばしにしても戻らない。
翌朝、二人は病院へ電話をかけた。春菜が受話器を持ち、澄江自身が手術を希望すると伝えた。受付の職員は名前と希望日を確認し、診察で改めて意思を確かめると説明した。電話を切ると、澄江は洗濯物を畳み始めた。春菜はその横で一枚ずつ受け取り、母の手の動きを覚えるように見つめていた。




