相談室の椅子
井沢は相談室へ、島崎夫婦を案内した。窓際には二脚の椅子が並び、卓上には水と筆記具が用意されていた。医師の説明を一度聞いただけでは、何を尋ねるべきか思いつかない家族が多い。担当の相談員は手術の有無を決める席ではないと伝え、まず二人の普段の生活を聞いた。
佳代は、夫が語りかけるのを途中で諦めてしまうことがつらいと話した。島崎は首を振り、持参した小さな紙へ『つらいのは、しゃべれないこと』とゆっくり書いた。文字も以前より崩れていたが、思いは伝わった。佳代はそれを読み、代わりに答えてしまったことを謝った。
相談員は術後の暮らしについても尋ねた。何を取り戻したいか、どこへ行きたいか、誰に会いたいか。島崎は時間をかけて『孫に昔の話』と記した。佳代は目元を押さえた。危険を承知で手術を望む理由が、寿命の数字だけでは測れないことを改めて知った。
帰りの会計窓口では、島崎が自分で財布を開いた。時間がかかっても、佳代は代わらなかった。小銭を受け取った島崎は窓口の職員に会釈し、その後で妻の方を見た。
廊下の向こうでは別の家族が診察の順番を待っていた。小さな子が水筒の蓋を落とし、母親が拾い上げる。井沢はその音を聞きながら、相談室の扉が閉じていることを確かめた。ここで交わされる話は、ほかの患者が自分の選択を決める材料に勝手にされてはいけない。
夫婦は手術日の予約を入れずに帰った。次回までに島崎本人が何を希望するか、家族の同席がなくても話せる機会を設ける。そう説明されて佳代は頷いた。外へ出ると、島崎は病院の植え込みの前で立ち止まった。花の名を言おうとして言えなかったが、佳代は急かさず、その隣に立った。




