妻の筆記帳
島崎の妻、佳代は台所の引き出しから古い筆記帳を取り出した。夫が勤めていたころ、休日に出かけたい場所を書いた帳面だった。旅先の駅名や食堂の名前が細かな文字で並び、余白には孫の落書きが残っている。佳代は夫に最初の頁を見せたが、島崎はしばらく文字を追ったあと、静かに帳面を閉じた。
言葉が出ない日は、島崎は指で示すことが増えていた。茶碗、水差し、窓の鍵。佳代は夫の望みを先回りして叶えようとする。それが時々、夫から小さな決定を奪っていることにも気づいた。島崎が水差しの先にある新聞を取ろうとしていたと分かると、佳代は自分の手を引っ込めた。
午後、長男から電話があった。手術を受けさせるべきだと考える長男は、全国で同じ殺人が起きていることも理解している。それでも父がまた自分の名前を呼べるなら、と言った。佳代は返事を急がず、父の気持ちを確かめるため家へ来てほしいと伝えた。受話器を置いたあとも、その言葉が耳に残っていた。
卓上には二人で撮った旅行写真もあった。島崎は海沿いの駅の写真だけ長く眺め、佳代が理由を尋ねると、鉛筆で小さな丸をつけた。佳代はその印を消さず、写真を帳面の間へ戻した。
島崎は夕食後、筆記帳を自分で開いた。震える指で一つの駅名を示し、口を動かしたが音にならない。佳代は場所の名前ではなく、そこで二人が食べた蕎麦を思い出して話した。島崎は少し笑い、机を軽く叩いた。過去の記憶が全部失われたわけではない。ただ言葉の出口が、日ごとに狭くなっている。
寝る前、佳代は筆記帳へ新しい一行を書いた。『明日、朗読会の先生に電話する』。治療を決めるためではなく、いま参加できることがないか尋ねるためだった。島崎は一行を読み、佳代の手の上に自分の手を重ねた。明日の予定は、二人でまだ決められる。




