扉の向こう
病院の手術室では、久世の次の手術が始まっていた。患者は長く言葉を失っていた会社員で、家族が繰り返し治療の説明を聞いた末に本人の意思を確認した。医師と看護師は朝から準備を進め、同意書の内容も改めて確かめていた。手術室の扉が閉まると、廊下には家族が残された。
家族の中で、妻だけが椅子に座らなかった。病気が治ると聞いてから、いつか夫と会話できる日を思い描いてきた。しかし手術後一年以内に殺されることも知っている。義母は椅子を勧めたが、妻は頷いても腰を下ろせなかった。二人の間では言葉が途切れ、看護師が持ってきた水もなかなか減らなかった。
妻は手術を待つ間、夫が病気になる前に使っていた携帯電話を握っていた。古い画面には、二人で出かけた日の写真が残っている。夫が声を失ってから、写真について尋ねても答えは返ってこなかった。妻は一枚ずつ見ながら、次に会えたら何を聞こうか考えた。旅行先の名前、食べた料理、帰り道のこと。何気ない質問ばかりが浮かんだ。戻ってきてほしいのは、声だけではなかった。
手術は予定より長くかかったが、術後の状態は良好だった。久世は家族へ経過を説明し、今後の検査予定を示した。妻は何度も頭を下げ、義母は息子にいつ会えるかを尋ねた。久世は面会の時間を伝え、次の病室へ向かった。家族は廊下でしばらく立ち止まり、互いの顔を見た。
夜、会社員はゆっくりと妻の名前を呼んだ。はっきりした声ではなかったが、妻には十分だった。義母は息子の手を取り、何度も頷いた。誰もこれからのことを口にしなかった。病室の窓には遠くの明かりが映り、ベッド脇の時計だけが静かに進んでいた。




