歩く速度
退院した夏歩は、母と駅まで歩いた。手術前は行き先を忘れることがあり、ひとりで遠くへ出るのが怖かった。今日は駅名を間違えず、乗り換えの表示も読める。母は少し後ろを歩き、必要なときだけ声をかけた。夏歩は歩く速度を落とさず、改札前でようやく振り返った。
自宅に戻ると、弟が磨いた運動靴が玄関に置かれていた。夏歩は靴ひもを結び、近所の公園まで歩いた。走るのはまだ先にしようと決めたが、地面の感触を確かめるだけでも嬉しかった。弟は隣で歩きながら、高校時代に姉が走っていた大会の話をした。夏歩は途中で笑い、細かい出来事まで覚えていることに驚いた。
駅のホームでは、夏歩が以前通っていた大学の広告が掲示されていた。新学期の案内には、少し前なら理解できなかった科目名が並ぶ。母は広告を見る娘の横顔を見つめた。手術前、同じ駅で何度も帰り道を教えたことを思い出す。今日は夏歩が先に正しい列車を見つけた。母は嬉しさを口にしようとしたが、声が揺れそうで「混んでいるね」とだけ言った。夏歩は頷き、母へ座席を譲った。
夜、夏歩は手術前に書きかけた手紙を取り出した。書かれている不安は消えていなかったが、今の自分は少し違う。知識が翌朝も残り、人との約束を忘れない。怖さまで治ってしまったわけではないのに、それだけで暮らしの輪郭が明るくなった。夏歩は手紙を封筒に入れず、机の引き出しへ戻した。
母は夕食の皿を並べながら、明日の予定を尋ねた。夏歩は大学へ連絡し、復学の相談をしたいと答えた。弟は帰りに新しいノートを買うと言った。三人はごく普通の予定を話し、それぞれ翌朝の支度を始めた。玄関の靴は、翌日もそこに並ぶことになっていた。




