鍵の交換
春菜の家では、玄関の鍵を新しくする工事が行われた。業者は丁寧に作業し、交換後の使い方を説明した。澄江は新しい鍵を手に取り、形を覚えるように眺めた。以前なら説明の途中で何をしているか分からなくなることがあった。今は最後まで聞いてから、春菜に同じ内容を説明できた。
工事が終わると、春菜は窓の補助錠も確かめた。母は付き合って歩いたが、だんだん表情が曇った。「家の中が怖い場所になるね」。春菜は手を止めた。危険を減らしたいだけなのに、母から暮らしの自由を取り上げているように感じた。「ごめん」。澄江は娘の手を握り、「謝らなくていい」と言った。
業者が帰ったあと、春菜は取り外した古い鍵の一部を受け取った。家族が何年も使ってきたもので、表面が磨り減っている。澄江はそれを見て、亡くなった夫が鍵をなくした日の話をした。春菜は初めて聞く話だと思ったが、母は前にも話したという。二人は昔のことを確かめ合い、少し笑った。危険を減らすための工事が、忘れていた家族の記憶を一つ連れてきた。
午後、二人は近所の喫茶店へ行った。店員は澄江が以前よく頼んでいた飲み物を覚えていて、久しぶりの来店を喜んだ。澄江は注文を間違えず、店員の名前も覚えていた。春菜は会話の途中で入口のほうを何度も見た。澄江はそれに気づいていたが、指摘せずにケーキを半分分けた。
夕暮れ、家に戻ると新しい鍵が滑らかに回った。春菜は何度も確認しかけ、途中でやめた。澄江は玄関に花を飾り、「明日も出かけようか」と言った。春菜は少し迷ってから頷いた。守ることと閉じ込めることの境界は、鍵を替えただけでは見つからなかった。




