手術の日差し
夏歩の手術当日、母は早朝から病院に来ていた。弟は学校を休み、待合室で古い運動靴の写真を眺めていた。夏歩は手術室へ運ばれる前、母に「帰ってきたら教科書を読みたい」と言った。母は手を握り、どんな頁でも一緒に読むと答えた。看護師が声をかけるまで、三人は誰も手を離さなかった。
久世は手術室で画像と数値を確かめ、スタッフと開始時刻を共有した。野崎は麻酔の状態を確認し、いつものように記録をつけた。手術の進み方は慎重で、誰も早さを競わない。器械の音と短いやり取りが続き、時間だけが静かに過ぎた。久世の手が何を変えたのか、助手たちは結果を追いながら理解しようとしていた。
弟は待合室で眠気に耐えながら、姉が昔使っていた大会の記録帳を読んでいた。走った距離、天気、食べた朝食まで書いてある。最後の頁には「次も走る」と大きな字が残っていた。弟はその言葉を母には見せなかった。手術室へ入った姉が戻ってくるまで、何か一つの約束に頼りたかった。記録帳を閉じると、母が手を差し出し、二人は黙って握り合った。
手術を終え、夏歩は病室で目を覚ました。母はすぐに会えたが、難しい質問はしなかった。ただ水が飲めるか尋ね、枕を整えた。夏歩は弟を見て、玄関に置いた靴を覚えていると言った。母は胸の奥から息を吐いた。手術が成功したと聞いてもまだ、目の前の娘の言葉を確かめたかった。
夜、夏歩は看護師に頼んで、短い文章を読んだ。翌朝その内容を尋ねられても、答えられた。母は笑い、弟は病室を出てから廊下で泣いた。成功を喜ぶ時間と、これから殺される恐怖が同時にあることを、家族の誰も説明できなかった。病室には、読みかけの本が一冊置かれていた。




