退院の風
病棟の男性が、久しぶりに自分の足で退院した。脳の損傷で文字を読めなかった人で、今は受付の案内板を読みながら歩いている。妻は荷物を持ち、本人が先に出口を見つけるまで口を出さなかった。病院の自動ドアが開くと、二人は足を止めて外の風を吸い込んだ。
井沢は退院後の生活について確認した。体力が戻るまでは無理をしないこと、定期検査を受けること、不安が強い夜は相談先へ連絡できること。男性は説明を聞き、「図書館にはいつ行けますか」と尋ねた。井沢は散歩から始めるよう勧め、図書館への外出も体調に合わせて考えてよいと伝えた。
タクシーの運転手は、後部座席の夫婦が何度も病院のほうを見ていることに気づいた。話しかけようか迷ったが、目的地を確認するだけにした。車内のラジオでは商店街の催しが紹介されていた。男性はそれを聞き、帰りに図書館の近くを通れるか尋ねた。妻は今日のところは家へ帰ろうと言い、男性も笑って頷いた。急いで行かなくてもいい場所が、また自分の暮らしの中に戻ってきた。
妻は最後に小さな声で「守れますか」と聞いた。井沢は何を尋ねられたのか分かったが、容易に答えられなかった。「必ず守れるとは言えません」。妻の顔が曇った。井沢は続けて、警察への相談や生活上の対策について改めて案内した。できない約束を避けることが、家族を突き放すことにはならないと思いたかった。
二人がタクシーへ乗ると、男性は窓から病院を見上げた。入院中は、外の道路にどんな店があるのか分からなかった。今は看板の字が読める。タクシーが走り出し、妻が小さな声で帰宅後の昼食を尋ねた。男性は少し考え、近所で買って帰るパンの名前を答えた。




