帰宅する手
藤倉が退院する日、病棟の廊下に同僚が二人現れた。祝いの花束ではなく、古い工具箱を持っていた。藤倉は箱の留め金を自分の左手で開け、使い込んだスパナを一本取り出した。手首を返す動作はぎこちなかったが、工具は落ちなかった。同僚は何度も「戻ってこい」と言い、藤倉はそのたびに同じ笑顔で頷いた。
看護師の井沢美緒は退院手続きの書類を確認した。説明を受けた事実を記す欄には夫婦双方の署名があった。殺害について記した別紙だけ、透明な袋に入れて渡した。妻は受け取ると鞄の底へ押し込んだ。病院が患者に渡すものとして、あまりに異様だった。それでも井沢は封筒を捨てられないことを知っている。
帰り際、同僚の一人が藤倉に修理待ちの古い車の写真を見せた。「こいつの音、覚えてるか」。藤倉は写真を覗き込み、故障の癖を言い当てた。二人は嬉しそうに顔を見合わせたが、すぐ作業の話へ戻った。何もかもが元通りになるわけではない。ただ、取り戻した経験が仕事の中にまだ生きている。その事実を確かめられただけで、今日工場へ来た意味があった。
昼過ぎ、久世は外来で澄江と再会した。澄江は娘と相談し、まだ決めかねていると話した。「決めるのはご本人です」と久世は言った。娘は医師の顔を見た。脅してもいないし、慰めてもいない。そこに不思議な冷たさを感じたが、澄江はむしろ落ち着いたようだった。誰かの善意に引きずられず、選ぶ時間を持てるからだ。
夜、藤倉の家では久しぶりに家族全員で夕食を作った。包丁を握るのは妻が止めたが、藤倉は箸を左手で持って見せた。中学生の息子が笑い、三人の皿が小さく触れ合った。食卓に置かれた鞄の底では、病院から持ち帰った紙が折れずに残っている。誰もそれを取り出さなかった。明日の朝も、藤倉は自分の手でカーテンを開けるつもりだった。




