残る一枚
春菜は母の保険証と診察券を入れる小さなケースを買った。以前は澄江が外出先で書類をなくすことがあり、春菜が代わりに管理していた。今は母が自分で確認し、診察日をカレンダーに書いている。春菜は嬉しい反面、ケースを渡す手がすぐには離れなかった。
澄江は「私は子どもじゃないわ」と笑った。春菜も笑おうとしたが、手元の紙に目が止まった。久世から受け取った説明書の写しだった。心臓に杭を打たれて殺されると記された文字は、何度読んでも変わらない。澄江は紙を取り上げず、娘のそばへ座った。「怖いことが書いてあるね」。春菜は頷いた。
春菜の職場では、同僚が休憩時間に声をかけた。以前より早く帰る日が増えたことを心配しているらしい。春菜は母の病気が治ったことだけを伝え、事件の詳細は話さなかった。同僚は理由を尋ねず、必要なら仕事を分担すると言った。その気遣いがありがたく、春菜は机の上の書類を見つめたまま少し泣いた。母との暮らしを守るため、働く場所まで失いたくはなかった。
「あなたのせいじゃないからね」。澄江は静かに言った。自分で決めた治療であり、娘が賛成したから受けたわけではない。春菜は母の手を握り、どうしてそこまで分かるのと尋ねた。「覚えているから」。澄江は短く答えた。病が進んでいたころは、さっき交わした言葉さえ曖昧だった。今は娘が何を言い、どんな顔をしたか分かる。
その晩、澄江は昔の料理帳を開き、春菜と一緒に夕食を作った。春菜は母が包丁を使う姿を横で見守り、塩の量で小さな口論をした。食べ終えるころには二人とも笑っていた。棚には新しい診察券のケースが置かれ、紙の一枚だけが引き出しに残っている。片づけることも捨てることも、まだできなかった。




