折り返しの電話
鷺沢は記事を読んだ読者からの電話を受け続けていた。病院への批判もあったが、何より多かったのは、自分や家族が病気を抱えている人々の声だった。「本当に治るなら紹介してほしい」。鷺沢は記者として医師を紹介する立場にないと説明し、正式な受診先を案内した。相手が失望するのを感じても、約束できないことを言わなかった。
その日の午後、三橋が記者を訪ねてきた。退院したばかりで、店の再開準備をしているという。三橋は自分の話を記事にして構わないと伝えたが、料理を作る様子も見てほしいと頼んだ。「死ぬ話だけじゃ、今の俺がいないことになる」。鷺沢は取材の申し出を受け、開店準備の日程を手帳に書き込んだ。
商店街には、三橋の店が閉じていたころに増えた空き店舗もある。向かいの靴修理店は客が減り、営業時間を短くしていた。再開の知らせを聞いて店主は久しぶりに看板を磨いたという。鷺沢は靴修理店の店主から、三橋が病気になる前の昼休みの賑わいを聞いた。一つの店が開くことは、店主と家族だけの出来事ではない。通りを使う人々の時間にも、小さな変化が戻るのだった。
編集長は記事の扱いを慎重にするよう求めた。治療の効果が確かなことと、術後の殺害をどう考えるかは分けて伝える必要がある。鷺沢は取材した家族の発言をもう一度確認した。誰かの怒りだけを大きく扱えば、別の人の事情が消えてしまう。だが対立を避けようとすれば、起きている事件の重大さが伝わらなくなる。
夜、鷺沢は三橋の店がある商店街を歩いた。閉じたシャッターに、新しく塗られた店名が見える。周囲の店はいつも通り営業し、八百屋の主人が段ボールを片づけていた。鷺沢は遠くから写真を撮るのをやめた。開く前の店に必要なのは記事のための光ではなく、明日の仕込みだった。




