夜勤の引継ぎ
夜勤に入った井沢は、病棟の引継ぎ簿を開いた。血圧の変化、食事量、歩行の練習、家族からの伝言。並んだ項目はどの病棟とも変わらない。久世の患者を特別扱いしないよう、看護師長の木場は繰り返し伝えていた。だがスタッフの誰も、説明書に記された一年を忘れたことはない。
入院中の料理人、三橋亮は、脳の発作が原因で長く厨房へ立てずにいた。手術を受けた翌日、配膳された薄味の汁を飲み、味の細部を言い当てた。久世が治したのは発作だけではない。病気のために失っていた感覚も、少しずつ戻っているようだった。三橋はノートに献立を書き始め、井沢へ「退院したら店を開ける」と告げた。
夜の病棟には、眠っているように見えて起きている人が少なくない。井沢は見回りの途中、廊下へ漏れる小さな明かりに気づき、病室の扉をそっと開けた。三橋は献立帳の余白に、昔の常連客の好みを書き留めていた。「忘れたくなくて」と笑い、すぐ鉛筆を置いた。井沢は照明を少し落とし、明日の朝にも書く時間があると伝えた。その言葉が慰めになるかどうか、本人に任せた。
午前二時、三橋は眠れずにナースコールを押した。痛みではなかった。「何をして過ごせばいいでしょう」。井沢は椅子に座り、話を聞いた。三橋は夜中に急に恐ろしくなると言った。いつ殺されるか分からないのに、毎日を喜んでよいのか。井沢は答えを決めつけず、眠れないときに話す相手がいることだけを伝えた。
交代の朝、三橋は病室の窓を開けて空気を入れ替えた。食堂へ運ばれる朝食の匂いが漂い、遠くで救急車の音がした。井沢は引継ぎ簿に、睡眠が浅く不安を訴えたことと、身体の回復が順調であることを別々に書いた。一人の患者には、同じ朝に両方の事実があった。




