古い運動靴
綾瀬夏歩は大学の図書館で、一冊の教科書を最後まで読めずにいた。前日の内容が途切れるせいで、同じ章を何度も読み返す。友人から借りたノートには丁寧な付箋が並び、覚えたはずの公式が余白を埋めている。夏歩は試験のことより、自分の努力が翌日には消える感覚に疲れていた。
病院から帰った母は、夕食の席で久世の説明をもう一度確認した。母が手術に賛成しない理由は明確だった。娘に殺されてほしくない。夏歩が手術を望む理由も同じくらい明確だった。明日の自分に何が残るか分からない毎日を終えたかった。互いに相手の言葉を否定できず、箸を置く時間が増えた。
夏歩の友人は講義の終わりに、欠席した日の資料をまとめて渡してくれた。事情を詳しく知らない友人もいて、皆が適切な言葉を探していた。夏歩は机の端で一枚ずつ紙を受け取り、礼を言った。帰りの電車では、資料に書かれた文字をゆっくり読んだ。覚えられないと分かっていても、明日の自分へ渡せるよう印を付ける。その小さな作業を、もう何年も続けてきた。
夏歩の弟は会話を聞いていたが、口を挟まなかった。食後、廊下に置かれた姉の古い運動靴を磨いた。高校時代に陸上部で使っていた靴で、今はほとんど履かれていない。靴底の土を落としながら、弟は姉が走っていたときのことを思い出した。大会の成績ではなく、帰り道に買ったアイスの味を覚えていた。
翌日、夏歩は図書館から母へ短いメッセージを送った。まだ決めていない、とだけ書いた。母は「帰ってから話そう」と返した。夏歩は教科書の同じ頁を開き、そこに一つの印を付けた。どんな結論になるにせよ、今夜は弟と靴を見に行こうと思った。予定帳へ書き込みながら、自分がその約束を明日も覚えていられるか確かめたくなった。




