演奏会の整理券
美谷が勤める学校の演奏会では、卒業生にも観覧席が用意されていた。奏は整理券を一枚受け取り、会場の後ろから生徒たちを見守った。自分が教えた子どもたちが背を伸ばし、新しい講師の合図を見て歌い始める。声の高さは区別できなくても、口の形や呼吸の揃う瞬間は分かった。奏は手を膝に置き、最後まで席を立たなかった。
演奏後、廊下で美谷が奏を見つけた。「どうだった?」。奏は「上手になったね」と答えた。音楽の細部を聞き取れないことは、二人とも知っている。それでも表情や姿勢から伝わったものがある。美谷は何も言わず、譜面台を片づける生徒たちへ目を向けた。奏は以前より頼もしくなった後ろ姿を見て、胸が熱くなった。
帰りに生徒の一人が声をかけた。奏は近況を尋ねられ、まだ治療を考えているとだけ伝えた。生徒は「また先生と歌えたらいいです」と言い、急いで友人のところへ戻った。約束を迫る言葉ではなかった。それがかえって奏の心に残った。
奏は整理券の裏側に小さく日付を書いた。生徒たちが歌う姿をもう一度見られた日の記録として残したかった。音が分からなくても、人が息を揃える瞬間には美しさがある。椅子を畳む音が聞き分けられないまま、奏は会場の出口へ歩いた。自分の靴音がどんな響きだったか、思い出そうとした。
帰宅した奏は、久世から渡された説明書を机へ広げた。危険を知ってなお治療を受ける人がいる。受けない人もいる。誰かの選択を借りて自分の返事にすることはできなかった。演奏会の整理券を本の間に挟み、父から預かった指揮棒を見つめた。明日の朝、学校へ電話をしてみようと思った。戻れる日を決めるためではなく、今の自分にできることを尋ねるためだった。




