古い指揮棒
奏の父は、娘が音楽の教員になった年に贈った指揮棒を引き出しから取り出した。黒い持ち手は長年使われ、指の当たる部分だけつやが残っている。娘が授業で使わなくなってから、父が頼まれて保管していた。奏は訪ねて来た父からそれを受け取り、箱のふたを開いた。木の匂いが少し残っていた。
父は手術に反対していた。奏の病気がつらいことは理解しているつもりでも、その後に必ず殺されるという話を受け入れられない。「音楽がなくても、お前はお前だ」。奏は頷いた。父の言葉は正しい。ただ、音楽は暮らしの中でいつも触れていたもので、なくしたままで構わないとは言えなかった。二人とも正しいと思うことが、同じ結論にはならない。
奏は父へ、合唱部の録音を聞かせた。父には子どもたちの声がはっきり聞こえた。奏には区別できなかった。父は途中で停止し、録音機を机へ置いた。「こんなふうに聞こえないのか」。奏は静かに頷いた。父の顔には初めて、病気そのものへの戸惑いが浮かんだ。
奏の父は帰る前、玄関に置かれた靴を揃えた。娘の家ではいつもそこまで手を出してしまい、以前何度か怒られた。今日は奏が何も言わなかったので、父は少し気まずそうに笑った。「そこは私がやるから」。やがて娘が言うと、父は安心したように靴から手を離した。
帰り際、父は指揮棒の箱を持ち帰ろうとしなかった。「使う場所ができたら持って行け」。奏はまだ決めていないと答えたが、父はそれでよいと言った。玄関が閉まると、奏は指揮棒を取り出し、窓の前で小さく振った。誰の歌声も聞こえない部屋で、腕だけは拍子を覚えていた。先を上げたところで止まり、奏は箱へ戻した。




