合唱室の空席
奏が休職した中学校では、臨時の音楽講師が授業を担当していた。以前の授業で使った楽譜は、鍵盤の横の棚に収められている。校長は復帰の希望を聞いても、すぐ時間割を戻すとは約束できなかった。奏が手術を考えていると知ったからだ。生徒の安全と教員の働く権利、その両方を守るために必要な相談があると説明した。
奏の同僚、美谷は電話で校長とのやり取りを聞いた。「学校は待ってるよ」と言いながら、声が揺れていた。彼女は奏が復帰したあと殺されるかもしれないことを恐れている。同時に、病気のまま教室から遠ざかっていく友人を見るのもつらかった。奏は「待っててくれるだけで助かる」と答え、電話の向こうの子どもたちの声へ耳を澄ませた。
放課後、合唱部の生徒たちは新しい曲の練習を始めた。美谷は奏が以前書いた注意を譜面台へ置き、息を吸う場所を確かめた。生徒の一人が「片瀬先生、戻れますか」と尋ねると、美谷は治療中だとだけ伝えた。詳しい事情は本人が決めて話すことだった。
音楽室には、生徒が手書きした「今日の目標」が貼ってあった。美谷は紙を替えようとして、奏の字に似た注意書きが混じっているのを見つけた。以前教わった言葉を生徒が覚えて使っていたのだ。教師が不在でも、その仕事はすべて消えるわけではない。美谷は紙を剥がさず、次の授業の資料を並べた。
夜、奏は自宅の電子ピアノの前へ座った。鍵盤を押しても期待した音は届かない。それでも指は動きを覚えている。左右の手で短い旋律をたどり、最後の和音で指を止めた。美谷から届いた「今日も皆、歌っていた」という短い連絡を読み、返信を書いた。「私も、もう一度あの部屋に立ちたい」。送信してから、奏は楽譜を閉じなかった。




