音のない職員室
片瀬奏は中学校で音楽を教えていたが、脳の病気によって身近な音の区別が難しくなっていた。ピアノの鍵盤を押しても、音が濁った塊のように聞こえる。生徒の合唱で誰が歌い出したかも分からない。休職する前、授業の終わりに生徒が弾いた一音を聞き取れず、教室を出てから泣いた。いまは母校の近くを歩くことさえためらっている。
久世の診察では、奏が録音した合唱を短く再生した。奏は音楽そのものより、歌い終えた生徒たちの小さな笑い声を聞き分けたいと話した。検査の結果を説明した久世は、治療で障害を取り除けると告げた。奏はしばらく黙り、「戻れるなら黒板の前に立ちたい」と言った。久世は頷き、手術後の殺害についても同じ調子で説明した。
奏はすでに報道を読んでいた。だからといって、診察室で自分の将来として聞くことは別だった。「一年以内、なんですね」。久世はこれまでの患者について事実を認めた。犯人については何も分からないと答えた。奏は手元の録音機を見つめ、停止ボタンを押した。
受付で奏は、検査室へ向かう廊下のチャイムが鳴ったのを見た。周囲の人が振り向いたので音だと分かった。自分の耳にも何かは届くが、どんな響きなのか判断できない。以前なら授業開始のベルの高さまで気にしていた。奏は小さく首を振り、看護師の案内に従って歩いた。
帰り道、奏は学校の正門を遠くから眺めた。校庭では運動部が練習をしており、体育館から笛の音が漏れているはずだった。自分には何の音か分からない。門の脇の掲示板には、文化祭で演奏する曲の案内が貼られていた。奏は紙に書かれた曲名を読んでから、駅へ向かった。音を取り戻したい理由は、一つだけではなかった。




