取調室の空席
榊は参考人として話を聞いた男性の記録を読み返していた。男性は現場の近くで働き、事件の時間帯に不審な音を聞いたと話していた。しかし周辺の作業記録を見ると、同じころ工事用の機械が動いていたことが分かった。榊はもう一度訪ね、記憶の範囲を確かめることにした。男性は仕事着のまま応対し、機械の騒音について自分でも調べたと告げた。
「勘違いだったんなら、そう書いてください」。男性の言葉に榊は頷いた。誰かを犯人だと決めたくて話を聞くのではない。彼が見ていないものまで証言に加えることはできなかった。工事会社の作業日誌を照合し、疑問だった音の出どころが一つ明らかになった。殺人への答えではなくても、誤った道を閉じる作業だった。
署へ戻ると御園が古い捜査資料を広げていた。被害者が治療を受けてから殺害されるまでの期間はそれぞれ異なり、共通して一年を越えていない。御園はそこから犯人の予定を推測しようとする意見を退けた。起きたことの記録と、次に起きることの予言は違う。防犯上の配慮は必要でも、裏付けのない時期を患者に示すわけにはいかなかった。
聞き取りを終えた男性は、作業場の扉を閉める前に榊へ水を勧めた。榊は礼を言って受け取り、仕事を妨げた時間を謝った。男性は「本当のことが分かればいいんです」と言った。何かを見たと思った自分の記憶が違っていたことを、恐れる必要はない。その言葉を榊は報告書の余白へ残さなかったが、覚えていた。
夜、取調室の灯りが一つ消えた。まだ誰も座っていない椅子だけが机の向こうに残る。榊は報告書の表題を直し、今日得られた事実を書き足した。御園は戸締まりを確認し、夜勤の担当へ引き継いだ。事件の説明が得られない日にも、訂正すべき記録は生まれる。二人は廊下で別れ、それぞれの帰り道へ向かった。




