まだ閉じない封筒
東都中央病院の診察室に入った若い女性は、問診票の職業欄を空白にしていた。名前は弓削真帆。広告会社で文字を扱う仕事をしていたが、病気が進んでからは、駅の案内板さえ読んだ直後に意味がほどけるという。久世が困る場面を尋ねると、真帆は鞄から折り畳んだ電車の路線図を出した。赤い線で自宅と会社が結ばれている。毎朝、弟が引いてくれる線だった。
「先生の手術なら、戻せますか」。久世は検査画像を示し、障害を取り除けると答えた。真帆が強く握ったのは路線図ではなく、同意についての説明をまとめた封筒だった。中には手術後に患者が殺害されてきた事実が、曖昧な言い換えなしに記されている。読めない箇所は声に出して説明すると井沢が申し出た。
真帆は途中で遮り、母が病院へ来る前に全部聞きたいと言った。治る喜びだけを先に母へ知らせれば、反対する言葉を奪ってしまう気がするからだという。久世は椅子を向き直し、手術の利点、選ばない場合の経過、殺害事件について分けて話した。犯人について確かなことは何もない。そこは何度尋ねられても変わらなかった。
説明の途中、真帆は井沢へ、水を飲んでもよいか尋ねた。透明なコップを両手で包むと、爪に残った薄い青色が見えた。病気になる前に自分で塗ったものだった。身の回りの小さな決定も、ずっと他人へ預けてきたわけではない。真帆は飲み終えたコップを机へ戻し、次の質問を待った。
診察を終えるころ、真帆は職業欄へ鉛筆で「休職中」と書いた。線が少し曲がっても消さなかった。受付で次の相談日を決め、封筒を鞄の一番上へ入れた。外へ出ると、病院前の横断歩道には制服姿の学生が集まっていた。真帆は路線図を広げ、自宅へ向かう電車の色を確かめた。今日はその線を弟へ尋ねずに、最後までたどってみたかった。




