名前のある棚
久世の病院に、警察から照会が届いた。医事課長の坂崎は文書の写しを揃え、法務担当と机を囲んだ。患者の診療情報をどこまで開示できるかは、捜査の必要と守秘義務を踏まえて慎重に決めなければならない。過去の事件では同様の照会に応じてきたが、資料を渡すたび、院内に新しい不安が広がった。
坂崎は保管棚から一冊の記録を抜いた。そこには治療で回復した人々の退院時の言葉が残されている。家族の顔を思い出した人、仕事に戻れた人、一人で買い物へ行けた人。棚の別の列には、後日届いた死亡通知を整理したファイルが並んでいる。同じ名前を二度見ることに、職員たちは慣れなかった。
院長室では、外来を続けることへの懸念だけでなく、待機患者の扱いも問題になっていた。別の病院では治療の道が乏しく、ここへ来るため長い移動をする人もいる。榊原は予約名簿を開き、症状の重さだけで順番を決められるのかを担当者へ尋ねた。医学的な緊急性と、本人が考える残された時間は同じではない。職員は新しい審査手順を検討することになった。
昼休み、井沢が医事課へ来た。新しい患者の家族が、過去の死亡者数を教えてほしいと言っているという。坂崎は公開できる範囲の集計を示した。結果は明白で、患者の家族が安心できる数字は一つもなかった。井沢は紙を受け取り、「それでも隠さないんですね」と言った。坂崎は少し考え、「隠してよい数字ではありませんから」と答えた。
夕方、久世は院長室へ呼ばれた。院長の榊原は机の上に警察の照会文書を置き、外来への問い合わせが増えていると告げた。「あなたが治す人は、確かに治っている」。その確認に久世は答えなかった。「だからこそ、皆が困っているんだ」。窓の向こうでは救急車が静かに停まり、別の医師が担架を押して玄関へ向かっていた。




