手術の翌朝
澄江が目を覚ましたとき、窓の端に薄い朝日が見えていた。春菜はベッド脇で椅子に座ったまま眠っている。澄江は娘を起こさず、壁に掛けられた時計を見て現在の時刻を答えた。それから昨日の日付、病院の名前、自宅の最寄り駅を、小さな声で確かめた。どれも途中で途切れず、言葉が順番に出てきた。
春菜が目を覚ますと、澄江は三十年前の旅行の話を始めた。海辺の旅館で春菜が熱を出し、父親が慌てて氷を買いに走った日のこと。春菜は幼すぎて覚えていない。「その話、昔よくしてくれた」。澄江は笑った。「知っているわ。あなたは毎回、私が話しすぎるって言った」。春菜はその場で顔を覆った。
病室へ戻ったあと、澄江は春菜に、昔の友人へ連絡してもよいかと尋ねた。病気のため約束を忘れることが続き、しばらく電話もかけていなかった。春菜は番号を探し、母へ受話器を渡した。相手が出ると、澄江は最初に謝り、それから近況を聞いた。電話を切るまで娘の助けは要らなかった。春菜は誰にも見えないように背を向け、洗面台の前でしばらく立っていた。
久世の回診は短かった。検査結果を読み、簡単な問いをいくつか投げ、澄江が答えるのを聞いた。異常所見は消えていた。春菜は医師へ深く頭を下げた。礼を言わなかった藤倉の妻と同じ病棟で、別の家族が何度も礼を繰り返している。井沢はその両方を見ていた。どちらも間違っているとは思わなかった。
午後、春菜は母と売店へ行った。澄江は棚から飴を一袋選び、会計の暗算をしてみせた。レジの店員は事情を知らず「計算が速いですね」と笑った。母娘は顔を見合わせ、声を出して笑った。帰り道、春菜の手の中には例の説明書があった。折り目はまだつけていない。その紙が示す未来を思い出しても、目の前の母が確かに戻ったことだけは消せなかった。




