原稿の温度
編集部へ戻った鷺沢は、喫茶店で聞いた話を整理した。男性の言葉をそのまま見出しにすれば、強い記事になるだろう。しかし妻が亡くなったことだけを強調すれば、本人が伝えたかった時間を狭めてしまう。鷺沢は原稿を書き直し、生活の具体的な場面を残すことにした。
編集長は文章を読み、説明を足しすぎないよう助言した。殺人の動機は分からず、犯人の姿を確かな言葉で示すこともできない。記事に必要なのは、警察が確認した事実と取材対象者が語った経験を区別することだった。鷺沢は資料を見直し、曖昧な表現へ注記を加えた。
掲載前、男性に約束した範囲をもう一度確かめた。返事には、家族とも相談したので掲載してよいと書かれていた。男性は最後に、妻の好きだった料理の名前だけはそのまま残してほしいと添えた。鷺沢はその一行を読み、原稿の該当箇所を確認した。
男性が希望した料理の名前は、原稿の中では一度だけ登場した。鷺沢は何度も繰り返すと作為的になると思い、普段の夕食を伝える場面にそっと置いた。
別の机では、病院へ関する噂を追う記者が電話をかけていた。鷺沢は個人情報の扱いに注意するよう伝え、取材先の確認方法を共有した。事件が注目を集めるほど、真偽の分からない話も増える。急いで記事を出すことが、正確に伝えることと一致するとは限らなかった。
夜、鷺沢は校正紙を机へ置いた。印刷所で亡くなった男性の弟も、今日仕事を終えたころだろう。取材相手の暮らしを勝手に想像して書くわけにはいかない。鷺沢は自分が聞いた言葉だけを残し、最後の誤字を直した。明日の紙面にも、知らない人の日常が触れることになる。




