手紙の宛先
鷺沢へ手紙を書いた男性が、編集部近くの喫茶店で話をすることになった。男性は妻の写真を一枚だけ持って来た。久世の治療を受けてから、妻が自分で買い物へ行けるようになった日のものだという。鷺沢は写真を見て、掲載のために預かることはせず、その場で返した。
男性は妻が亡くなるまでの生活を話した。二人で夕食を作り、古い友人と会い、しばらく疎遠になっていた親戚へ電話した。治療前は失われた記憶を取り戻せるとは思っていなかった。殺害されると知っていながら手術を望んだ妻を、最後まで止めきれなかったと語った。
「良かったと言いたいのに、言うと苦しいんです」。男性の言葉に、鷺沢は返事を急がなかった。喜びと後悔は同時に残る。どちらかを選んで話すよう求めることはできない。男性はしばらく黙り、やがて妻が好きだった珈琲の種類を思い出して笑った。
男性は珈琲の砂糖を入れるか迷い、妻がいつも自分の分まで先に決めていたと話した。鷺沢は笑わずに聞いた。習慣が一つなくなるだけで、店の机の上にも空白が生まれる。
取材の終わり、鷺沢は記事に使ってよい範囲を改めて尋ねた。男性は名前を載せないことを希望し、妻の写真も公開しないでほしいと伝えた。ただ、治療後に二人で暮らした時間が確かにあったことを知ってほしかった。その願いを忘れずに書くと鷺沢は約束した。
喫茶店を出ると、雨が細かく降っていた。男性は傘を開き、駅へ向かった。鷺沢は見送ったあと、ノートを閉じた。取材した人が歩いて帰る先には、亡くなった人のいない部屋がある。記事を出したあとも、その暮らしは続いていく。




