公開されない名前
警察の広報担当は、印刷所で起きた事件について発表文を確認していた。捜査上必要な事実を伝える一方、被害者の医療情報を不用意に広めてはならない。取材する側からは細かな質問が続くが、答えられないことも多い。担当者は確認済みの情報と非公表の理由を整理し、関係部署へ共有した。
鷺沢は発表された内容を読み、過去の事件との共通点を確かめた。杭による殺人であることは一致している。しかし被害者の氏名や詳しい治療歴を、取材だけで確定したように書くことはできない。編集部には読者から情報提供が届いていたが、真偽の分からないものは記事に使わなかった。
午後、匿名の投稿に印刷所の住所が書かれていることが分かった。鷺沢は拡散しないよう記者たちへ伝え、必要な相談窓口へ情報を回した。事件の周辺にいる人々が、興味本位で訪ねられることを恐れている。知る権利という言葉で、すべての私生活が公開されるわけではない。
記者会見で質問を受けた担当者は、確認できない情報を持ち帰ると明言した。沈黙で逃げるためではない。間違った名前を一つ伝えれば、関係のない人の生活にも影響する。
印刷所では弟が取材への対応を断り、仕事へ戻っていた。職人たちは機械を動かし、納品の準備を進める。兄の死を知っている取引先が、静かに仕事を続けてほしいと電話で伝えてくれた。弟は礼を言い、発注内容を確認した。取材の電話より先に、紙を待っている人がいる。
夕方、鷺沢は書いた原稿から余分な説明を削った。伝えるべきことを減らしたのではない。確認できていない部分を断定しないためだった。記事の末尾には相談先を記した。印刷所の名も、遺族の暮らしを想像させる細かな場所の情報も載せなかった。




