言えない返事
蒼はリハビリ室で、家族の名前を声に出す練習をしていた。千尋の名前の最初の音は出たが、続けようとすると言葉が崩れた。療法士は無理に繰り返させず、絵カードを使う方法へ切り替えた。蒼は母の絵を選び、嬉しそうに見せた。言葉にならなくても伝わったことを、療法士は記録した。
面会に来た父は、仕事先で同僚から手術を勧められたと話した。相手は善意だったのだろう。しかし息子が殺されると知っていて決める難しさを、短い言葉では説明できなかった。千尋は誰かの励ましで選択を急がないよう伝え、夫も同意した。息子がどんな毎日を望んでいるか、二人はまだ十分に聞けていない。
午後、病棟の相談員が二人へ、子どもの意思確認を支える方法を説明した。図や写真、短い言葉、繰り返す面談。分からないことを分かったふりで埋めない。千尋は時間がかかると知りながらも、その方法を試したいと思った。大人の不安が大きいほど、子どもの小さな声は見落とされやすい。
父は黄色い舟を手に取り、折り目が丁寧につけられていることに気づいた。蒼は父の手から舟を受け取り、もう一度折り直して見せた。二人は言葉を使わず、同じ手順を確かめた。
病室で蒼は、友人の写真へ新しい色の紙を添えた。何を伝えたいのか尋ねられると、首をかしげる。千尋は紙を取り上げず、見守った。蒼はやがて紙を折り始め、いつもの青い鳥とは違う、黄色い小さな舟を作った。父が「船だね」と言うと、蒼は大きく頷いた。
夜、夫婦は病室を出てからもしばらく廊下に残った。千尋は、息子が今日作った舟のことを話した。夫は船に乗ってどこへ行きたいのだろうと尋ねたが、答えはない。二人は次の面会で本人に聞こうと決めた。手術の前に、まだ尋ねたいことがたくさんあった。




