名前を呼ぶ夕方
島崎は退院を前に、許可された短時間の外出で朗読会へ足を運んだ。交流館の扉を開くと、いつもの仲間が立ち上がって迎えた。講師は特別な挨拶を求めず、席へ案内した。島崎は配られた文章を見て、読みたいと申し出た。佳代は後ろの席に座り、夫が息を整えるのを待った。
読み始めた島崎の声は、以前より少し低くなっていた。それでも文章は途中で途切れず、句読点で自然に息をついた。仲間たちは最後まで聞き、読み終えたところで拍手した。島崎は照れくさそうに笑い、講師へ紙を返した。誰もその場で、手術の先に待つことを口にしなかった。
休憩中、島崎は隣の参加者と旅行の話をした。昔訪れた駅の名前を言い、佳代が好きだった蕎麦屋を思い出した。相手も同じ町へ行ったことがあると話し、会話が続いた。佳代はそれを聞きながら、夫が誰かへ思い出を伝えられる喜びを改めて感じた。
朗読会の講師は、島崎が以前好んだ随筆を一冊覚えていた。あえてその本を勧めず、本人が好きなものを選ぶのを待った。島崎は何冊か開き、一番薄い本を買った。
病院へ戻る途中、島崎は書店へ寄って新しい朗読用の本を買った。佳代は値段を見て少し迷ったが、島崎は来週のために必要だと言った。二人は笑い、本を袋へ入れた。家の近くで孫から電話があり、島崎は自分の声で今日のことを話した。孫はもっと読んでとせがみ、島崎は次に会ったときと約束した。
夜、病室へ戻った島崎は筆記帳を開き、朗読会で読んだ文章の題名を書いた。その下へ佳代が日付を記した。どれほど先まで続けられるか分からなくても、今日の声は消えなかった。佳代は本を枕元へ置き、夫へ水を渡した。夕方に帰ってきた言葉が、食卓を静かに満たしていた。




