黒塗りベンツと不思議な胸の鼓動㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
周囲の遠慮のない囁き声を耳にしながら、エバは一切の動揺を見せることなく、凛と背筋を伸ばした姿勢でキャンパス内へと足を踏み入れた。その堂々たる歩みは、以前の新子が持っていた「特権階級ゆえの無自覚な優越感」などという薄っぺらいものでは決してない。冥界のエリート官吏として、三途の川で何万、何十万もの魂の業を見下ろし、罪を量ってきた圧倒的な自信と、魂の底から湧き上がる凄みに裏打ちされたものであった。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ中、文学部心理学科の校舎へと続く並木道を歩いていると、前方の木陰から、見覚えのある二つの人影が小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。
「新子!」
大きく手を振りながら、周囲の目を気にする様子もなく駆け寄ってきたのは、新子の親友である大崎夕子だった。華やかな巻き髪と、最新のトレンドを巧みに取り入れたファッションがよく似合う、明るく社交的な女子大生である。そして、その後ろから少し遠慮がちに、しかし確かな心配と安堵の表情を浮かべてついてきたのは、幼なじみの太田真喜だった。真喜は長身でスポーツマンらしい爽やかな体躯をしており、新子のことを昔から兄のように、あるいはそれ以上の感情を持って何かと気にかけてくれる面倒見の良い青年である。
「夕子、それに真喜も。おはよう」
エバが立ち止まり、二人に完璧な微笑みを向けると、夕子は勢いよくエバの体に抱きついた。
「よかった……! 本当によかった! 新子が屋上から落ちたって聞いたとき、私、目の前が真っ暗になって、息が止まるかと思ったんだから……!」
夕子の目からは大粒の涙が溢れ出ており、エバの肩口を濡らした。他者からの純粋な情愛や、肉体的な接触を伴う親愛の表現にまだ全く慣れていないエバは、一瞬どう反応していいかわからず、丸太のように体を硬直させた。冥界では他者との触れ合いなど皆無であり、ましてや他人の涙を肌で感じるなどあり得ないことだったのだ。しかし、新子の記憶がエバの心を動かし、彼女はゆっくりと夕子の背中に手を回して、ポンポンと軽く不器用な手つきで叩いた。
「ご心配をおかけしてごめんなさいね、夕子。でも、この通りピンピンしているわ。かすり傷一つないでしょう? だから泣かないで」
「本当に奇跡だよ。でも、絶対に無理はするなよ、新子。何かあったらすぐに俺たちに言うんだぞ」
そう言って、真喜がエバの肩にそっと、庇うように手を置いた。彼の手のひらから伝わってくる、力強くも優しい温もり。そして、少しだけ眉を下げて真っ直ぐにこちらを見つめてくる、誠実で真剣な瞳。
その瞬間であった。エバの体内に、これまで経験したことのない、全く未知の異常な反応が巻き起こった。
トクン、と心臓が大きく、痛いほどに跳ねたのである。
顔が一気にカッと熱くなり、血流が激しく乱れるのがわかる。呼吸がわずかに浅くなり、胃の奥底がキュッと締め付けられるような、甘く、それでいてひどく苦しい感覚。特定の人間に対して「ドキドキしたり紅顔したりする」という、エバの強靭な精神力をもってしても全く制御不能な、不可思議な状態に陥ってしまったのだ。
(な、何これ!? 心拍数が異常に上昇している! まさか、この肉体はまだどこか致命的な損傷を抱えているの!? いや、違う。この反応は、彼に見つめられた瞬間に起きた……!)
エバは内心でかつてないほどの大パニックに陥った。
天使養成校の厳格な教育理念において、宇宙の調和を乱す最大の要因は「不確かさ」であると徹底的に教え込まれてきた。中でも、個人的な感情に起因する「愛」や「恋」といったものは、最も不確かで予測不可能な変数である。愛は時に特定の魂を贔屓し、絶対的であるべき天秤を狂わせ、全体の調和を乱す最大の原因となる。そのため、公的な判断を下す管理者において、それは完全に排除されるべき個人的なノイズであり、汚濁であると冥府法典にも記されているのだ。冥府のエリート官吏として、そのような不確かな感情の波に飲み込まれることなど、絶対にあってはならない屈辱的な事態であった。
しかし、理屈ではわかっていても、目の前にいる真喜の優しい眼差しを見つめていると、エバの胸の奥底で、その不可解な痛みがどんどん大きく広がっていくのを止めることができなかった。
「し、新子? 顔がすごく赤いぞ。やっぱりまだ体調が万全じゃないんじゃないか? 保健室に行くか?」
真喜がさらに心配そうに顔を近づけ、覗き込んでくる。その端正な顔立ちと、男らしい香りが近づいてくるだけで、エバは思わず弾かれたように一歩後ずさりしそうになった。
「だ、大丈夫よ! 何でもないわ! ただ、少し急いで歩いてきたから暑くなっただけよ。それよりも、早く教室に行きましょう。授業に遅刻してしまうわ」
エバは必死に動揺を隠し、顔を背けてわざと冷たい声を出して早足で歩き出した。夕子と真喜は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げながら、慌てて彼女の後を追う。
「ねえ、新子。なんだか今日、本当に雰囲気が違わない? すごく綺麗になったというか……それに、なんだかすごく強そうっていうか。昔の新子なら、あんな風に堂々と歩けなかったよ」
夕子が隣を歩きながら、じっとエバの横顔を観察してくる。
「そう? 気のせいよ。一度死の淵を見たから、少しだけ肝が据わったのかもしれないわね。人間、いつ死ぬかわからないのだから、堂々と生きないと損でしょう?」
エバは涼しい顔で適当な嘘を吐きながら、周囲の学生たちへと鋭い視線を巡らせた。
この美しく平和に見える朱鳥女子大学のキャンパス内には、新子を校舎の屋上から突き落とし、その命を無残に奪おうとした犯人が確実に潜んでいるのだ。奪衣婆としてのエバの目は、すれ違う人間たちの魂の奥底を冷徹に、そして正確に観察していた。嫉妬、猜疑心、妬み、金銭欲、権力欲、自己顕示欲。美しく着飾った令嬢たちの魂からも、大小様々な欲望の臭いが立ち上っているのが見えた。しかし、どれも決定的な殺意を持つほどの黒さではない。
ふと、エバの背筋に氷を当てられたような冷たい悪寒が走った。
遠くの旧校舎の陰から、こちらをじっと見つめている、ねっとりとした異常な視線。それは、以前から新子に向かって異常な執着を抱いているストーカー、犬飼幸男の放つ狂気のオーラであった。ストーカー行為は、相手を支配したいという欲求や力の誇示が背景にある。犬飼の魂からは、ドロドロとした黒い欲望が、まるで腐りかけたヘドロのように溢れ出しているのが、エバの異能の目にははっきりと見えていた。
(なるほどね。あの薄汚い魂の持ち主も、この突き落とし事件に何らかの形で絡んでいるのは間違いないわ。それにしても……)
エバは、高鳴る胸元を衣服の上からギュッと押さえた。真喜に向けられた時の、あの不思議で甘苦しい胸の鼓動。そして、犬飼に向けた時の、この身の毛もよだつような冷たい嫌悪感と怒り。
人間界というのは、これほどまでに複雑で、極端から極端へと揺れ動く多様な感情が渦巻く、混沌とした恐ろしい世界なのだ。
(バカ閻魔め。本当にとんでもない場所に私を放り込んでくれたわね。でも、いいわ。受けて立ってあげる。この不確かな感情の正体も、私を殺そうとしたふざけた犯人も、そしてこのキャンパスに潜むすべての嘘も、この奪衣婆のエバ様が完璧に暴き出して、天秤にかけてやるんだから!)
春の爽やかな風が吹き抜けるキャンパスで、冥界のエリート官吏は、人間としての未知なる感情の奔流に翻弄されながらも、力強く、そして華麗に微笑んだ。その切れ長の瞳の奥には、地獄の業火よりも熱く、そして絶対的な「善と美」の裁きを下すという、揺るぎない決意の光が宿っていたのである。
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