平和な日常の裏で嗤(わら)うもの㈢
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
首筋に、冷たい氷の針を突き立てられたような悪寒が走った。
同時に、先日の焼き肉店の帰りに感じたあの不気味な匂いが、風に乗って再び鼻腔を掠めたのだ。
(また、この匂い……!)
鉄と灰の匂いではない。甘く、腐敗した果実のような、むせ返るような悪意の『腐臭』。
エバは立ち止まり、キャンパスの喧騒の中で、その匂いの発生源を鋭く探った。
元・奪衣婆としての研ぎ澄まされた感覚が、人間の目には見えない次元の歪みを捉え始める。周囲の学生たちの笑い声が、まるで水の中に潜ったように遠のき、世界が急速に彩度を失っていく。
エバの視線が、イチョウ並木の陰にある、人気の少ない古い掲示板の前に釘付けになった。
そこに、一人の女子学生が立ち尽くしていた。
彼女の手には、有名企業の最終面接の不合格通知が握りしめられている。そして、彼女の視線の先には、先ほど「内定をもらった」と大声で喜んで歩き去っていった親友の背中があった。
『どうして……どうしてあの子ばっかり。私の方がずっと努力してきたのに。私の方がずっと優秀なのに……!』
女子学生の心の中で渦巻く、どす黒い嫉妬と絶望の感情。
人間であれば誰しもが抱き得る、ほんの小さな負の感情の芽。しかし、エバの『奪衣婆の眼』には、その女子学生の背中に張り付いている「異形の影」がはっきりと視覚化されて見えていた。
それは、実体を持たない黒い靄のような姿をしていた。
靄は女子学生の耳元に顔を近づけ、彼女の嫉妬という感情を養分として啜りながら、甘く、破滅的な言葉を囁き続けている。
『そうよ……あなたは悪くない。世界が間違っているのよ。あの子が消えれば、あなたの価値が証明される……。奪いなさい。あの子の幸せを、あの子のすべてを……!』
悪魔だ。
天界の不可侵条約を破り、人間界の陰に潜伏して、人間の魂を堕落へと導く不可視の寄生虫。
香々美の心を狂わせ、勉の強欲を肥大化させ、菱倉家を破滅のパズルへと導いた「真の黒幕」と同質の存在。
(ああやって、人間の弱い心に忍び込んで、悲劇の舞台を裏から演出しているのね……!)
エバはコートのポケットの中で、固く拳を握りしめた。
あの女子学生は、まだ完全に悪魔に取り込まれたわけではない。しかし、このまま放っておけば、彼女の魂は嫉妬の炎に焼き尽くされ、いずれ香々美のように取り返しのつかない罪を犯すことになるだろう。
そして、獲物の魂を貪っていた黒い靄――悪魔が、不意にその動きを止めた。
悪魔は、ゆっくりと首にあたる部分を巡らせ、数十メートル離れた場所に立つエバの方へと視線を向けたのだ。
人間の目には見えないはずの存在。
しかし、悪魔はエバの纏う異質な霊力を感じ取り、彼女がただの人間ではないことに気づいたようだった。
靄の奥で、無数の赤い瞳が不気味に瞬く。そして、その裂けた口が三日月型に歪み、エバに向かって、明らかな『嘲笑』を浮かべた。
『……ククク。なんだ、冥界の犬が、こんなところで人間の真似事か?』
直接脳内に響く、ノイズ混じりの不快なテレパシー。
『我々の極上のディナーを邪魔するなよ、お嬢ちゃん。……人間という脆い器は、我々が少し背中を押してやるだけで、いとも簡単に地獄へ落ちてくれる。最高に滑稽で、美味しい極上のショーだ。お前も特等席で見ていくといい』
悪魔はエバを嘲笑いながら、女子学生の影の中へとさらに深く潜り込み、同化しようとしていた。
――許せない。
エバの胸の奥で、静かな、しかしマグマのように熱い怒りが沸点に達した。
彼らは、人間をただの「餌」としか見ていない。
夕子が笑い、真喜が照れ、油江が知的な罠を仕掛けてくる、このどうしようもなく愛おしい世界。その温かい繋がりを、悪魔どもは陰から嘲笑い、泥を塗り、破滅させて娯楽にしようとしているのだ。
(そんなこと、絶対に許さない……!)
エバの周囲の空気が、急激に冷え込んだ。
可憐な女子大生「菱倉新子」の姿のまま、彼女の瞳の奥に、かつて冥界の亡者たちを恐怖の底に突き落とした『元・奪衣婆』としての絶対零度の光が宿る。
エバは、悪魔が寄生している女子学生に向かって、ゆっくりと、しかし一切の迷いのない足取りで歩みを進めた。
閻魔大王との契約。
愛する者たちの生きる、この平和な日常を守り抜くという誓い。
その最初の執行が、今、夕暮れのキャンパスで静かに幕を開けようとしていた。
平和な日常の裏で嗤う、新たなる影。
しかし、その影を狩るための絶対的な「刃」は、すでに人間界に解き放たれているのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




