平和な日常の裏で嗤(わら)うもの㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
「そうだ。……たしかに勉は強欲な男であり、香々美は君に対して深い嫉妬を抱いていた。彼ら自身に悪意の種があったことは間違いない。……だが、彼らが『殺人』という一線を越えるに至った心理的プロセスが、あまりにも急激で、不自然すぎるんだ」
エバの背筋に、ピリッとした緊張が走った。
数日前の夜、焼き肉店からの帰り道に嗅いだ、あの『腐臭』の記憶が脳裏に蘇る。
「人間が殺意を抱き、それを実行に移すまでには、通常、強固な倫理的ストッパーとの葛藤がある。しかし、香々美の精神鑑定の結果を見ると、彼女はある時期を境に、そのストッパーが『何者かによって意図的に取り外された』かのような、異常なまでの心理的飛躍を起こしている」
油江の長い指先が、データ上の不自然なグラフの推移をトントンと叩く。
「ストーカーの犬飼を洗脳し、屋上から君を突き落とさせた。その手口は狡猾だが、当時の香々美の精神状態は、まるで『誰かの囁きに酔わされている』ような、極度の躁状態にあった形跡がある。……勉にしても同じだ。五年前に妻を殺害した時の彼は、あまりにもためらいがなく、冷酷すぎた」
油江はそこで言葉を区切り、エバの目を真っ直ぐに見据えた。
「まるで、彼らの背後に立って、その欲望と嫉妬の炎に『ガソリンを注いだ』……見えざる黒幕がいるかのようにね」
ドクン、と。
エバの心臓が、先ほどの甘いときめきとは全く違う、冷たい警鐘を鳴らして跳ねた。
(教授の天才的なプロファイリング能力が……人間の心理学の枠組みを超えて、あの『悪魔』の存在の輪郭を捉え始めている……!?)
エバは表面上の冷静さを必死に保ちながら、カップの紅茶を口に運んだ。
油江の言う通りなのだ。
天界のルールを破り、人間に取り憑いてその負の感情を餌として増殖する不可視の思念体――悪魔。彼らこそが、人間の倫理というストッパーを破壊し、破滅的な行動へと駆り立てる真の黒幕。
「……気のせいではありませんこと? 人間というものは、時に自分でも驚くほど、簡単に一線を越えてしまう生き物ですわ。……教授が一番、よくご存知でしょう?」
エバはあえて、油江の推論を否定するように微笑んでみせた。
これ以上、彼をこの「裏の世界」の闘争に巻き込むわけにはいかない。悪魔の存在を証明してしまえば、彼の知的好奇心は必ずそちらへと向かい、致命的な危険に晒されることになるからだ。
「……そうだな。超常的な黒幕など、それこそ三流のオカルト小説だ。私の考えすぎかもしれない」
油江はファイルをパタンと閉じ、ふっと息を吐いた。
しかし、その瞳の奥には、未だに解けきっていない謎に対する執着の光が、微かに燻り続けているのを、エバは見逃さなかった。
平和な日常の光。その足元に広がる、色濃い影。
エバの「悪魔狩人」としての最初の闘いは、彼女が愛するこの平穏な日常の裏側で、すでに静かに、そして確実に幕を開けようとしていたのである。
「……そうだな。超常的な黒幕など、それこそ三流のオカルト小説だ。私の考えすぎかもしれない」
油江はファイルをパタンと閉じ、ふっと息を吐いた。
しかし、その瞳の奥には、未だに解けきっていない謎に対する執着の光が、微かに燻り続けているのを、エバは見逃さなかった。
(教授のあの探求心が、いずれ彼自身を危険な領域へ引きずり込んでしまわないか……私が必ず、彼をこちら側から遠ざけておかなければ)
「さあ、難しいお話はここまでにして、せっかくのマカロンをいただきましょう」
エバは雰囲気を変えるように、鮮やかなパステルカラーのマカロンを一つ指先でつまみ、小さくかじった。サクッとした生地の中から、濃厚なピスタチオのクリームがとろけ出し、口いっぱいに甘さが広がる。
「ん……美味しい! 外側のサクサク感と、中のクリームのしっとりとした甘さが絶妙ですわ!」
エバが純粋な喜びで目を輝かせると、油江はファイルをデスクの引き出しにしまい、苦笑しながら紅茶を啜った。
「君がそうやって無防備に甘いものを頬張る姿を見ていると、私のプロファイリング能力すら鈍ってしまいそうだ。……まあいい、今日のところは、この平穏なティータイムを楽しむとしよう」
油江の視線が、再び熱を帯びてエバに向けられる。
「だが、忘れないでくれたまえ。私が君のすべてを解き明かすのを諦めたわけではない。……君がどんな秘密を抱えていようと、いずれ必ず、私の腕の中で丸裸にしてみせるからね」
「……っ」
知的な大人の男が放つ、冗談のようで冗談ではない、重すぎる愛の宣戦布告。
エバは熱くなった頬を隠すように、もう一口マカロンを頬張り、紅茶のカップで口元を覆った。
(丸裸にするだなんて……奪衣婆である私が、人間の男性にそんなことを言われる日が来るなんて、思いもしませんでしたわ)
焦れったくも甘い、この研究室での時間。
エバは、永遠に続いてほしいと願うこの平穏な日常の温かさを、自らの魂に深く、深く刻み込んでいた。
その日の夕刻。
油江の研究室を辞したエバは、冬の気配が深まるキャンパスを一人で歩いていた。
イチョウ並木は夕日に照らされて黄金色に輝き、家路を急ぐ学生たちや、サークル活動に向かう若者たちの笑い声が、冷たい空気の中で心地よく響き合っている。
『新子! 今終わったか!? 正門のところで待ってるぞ。寒いから急いで来いよ、温かいココア買っといたから!』
コートのポケットの中で震えたスマートフォン。画面には、真喜からのメッセージが、スタンプ付きで届いていた。
エバは画面を見て、ふふっ、と自然に頬を緩めた。
(真喜さんらしいですわね。……ええ、今すぐ向かいますわ)
エバがメッセージを返し、足早に正門へと向かおうとした、その時だった。
――ゾワリ。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




