愛おしき人間界(ここ)で生きていく㈢
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
エバは、自らの胸の奥底に静かに触れた。
そこには、閻魔大王と交わした絶対的な契約の印が、魂の核として深く刻み込まれている。
記憶を保ったまま現世に留まる対価。それは、天界の掟を破って人間界に潜伏し、人々の強欲や嫉妬を煽って破滅へと導く不可視の存在――『悪魔』を狩る、特別監視官としての果てしない闘争の始まり。
それは、平穏な日常の裏側で、常に死と隣り合わせの地獄を歩き続けることを意味している。
しかし、エバの心に後悔は微塵もなかった。
(この人たちには、悪魔のことなんて、何も知らずに笑っていてほしい。……私が、この温かい世界を裏側から守り抜いてみせる)
エバは、焼き肉の煙越しに真喜と油江を見つめ、密かに誓いを立てた。
彼女が人間界に残ることを決意したのは、単に美味しい食べ物や温かいお風呂への執着からではない。人間の持つ脆弱さと、それを補って余りある「愛情」という無防備な光を、自らの命を懸けてでも護りたかったからだ。
「どうした、新子? 箸が止まってるぞ。もしかして、もうお腹いっぱいか?」
真喜が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「いいえ、まだまだいけますわよ! 次は冷麺と、デザートのバニラアイスをお願いしますわ!」
エバは満面の笑みを浮かべ、再び現世の「生」の喜びに全神経を集中させた。
深夜。焼き肉店を出た三人は、横浜の冷たい海風が吹き抜ける大通りを歩いていた。
真喜は「食い過ぎたー」と腹をさすりながら満足げに笑い、油江は「君のエンゲル係数の高さには恐怖を覚える」と毒づきながらも、どこか楽しげにエバの歩調に合わせて歩いている。
髪や服に染み付いた焼き肉の匂い。
これすらも、生きて生活している証しなのだと思えば、エバにとってはひどく愛おしいものだった。マンションに帰ったら、温かいお風呂に入り、柔らかいベッドで眠りにつく。明日にはまた、夕子と大学のキャンパスで笑い合う、平和な日常が待っている。
菱倉家の凄惨な事件は終わった。
現世の理を歪めていた因果の鎖は、元・奪衣婆の力によって完全に断ち切られたはずだった。
――しかし。
駐車場へ向かう交差点の信号待ち。
冷たい秋風が、ふっと風向きを変えたその瞬間。
「……ん?」
エバの足が、ピタリと止まった。
彼女の鋭敏な魂の嗅覚が、風に乗って運ばれてきた『ある異臭』を確かに捉えたのだ。
(この匂いは……)
それは、冥界の底で嗅ぐ、亡者たちの鉄と灰の匂いではない。
もっと甘く、ひどく人工的で、熟れすぎた果実が腐敗していくような、吐き気を催すほどの『腐臭』。
エバの脳裏に、閻魔大王の言葉が閃光のように蘇る。
『人間の「強欲」や「嫉妬」といった負の感情のわずかな隙間に忍び込み、その悪意を極限まで煽り立てて破滅へと導く存在』
ふと、思考が繋がり始める。
一族の資産を狙った勉の、あまりにも冷酷で周到すぎた殺害計画。
そして、新子を階段から突き落とすようストーカーを操った香々美の、理性を完全に喪失した狂気的な嫉妬。結果としてストーカーは屋上から落とし新子を死に至らしめた。
彼ら自身の弱さがあったのは事実だ。しかし、あの事件の背後に、もしも彼らの悪意を肥大化させ、破滅の舞台を用意した「見えざる黒幕」が存在していたとしたら。
(……間違いない。この匂い……)
エバは視線だけで風上――平和な日常の光が消えた、路地裏の深い暗闇――を鋭く睨みつけた。
天界のルールを破り、人間界の欲望を啜る寄生虫。
『悪魔』の残香だ。
「どうした、エバ? 忘れ物でもしたか?」
前を歩いていた油江が振り返り、怪訝そうな顔で尋ねてきた。真喜も「寒かったか? コート貸そうか」と心配そうに戻ってくる。
エバは、瞬時に冷徹な執行官の顔を隠し、無邪気で可憐な「菱倉新子」の完璧な笑顔を二人に向けた。
「いいえ。なんでもありませんわ。……お肉の匂いが、少し風に乗っただけです」
エバは二人に駆け寄り、真喜と油江の間に並んだ。
人間としての愛おしき日々を享受しながら、裏側では容赦なく地獄の刃を振るう。
閻魔大王と契約を交わした『悪魔狩人』としての彼女の本当の闘いは、平和な日常の皮を被ったこの街の片隅で、今まさに静かな産声を上げようとしていた。
エバは、背後に蠢く新たな影の存在を確信しながら、それでも恐れることなく、愛する者たちと共に光の中へと歩みを進めていくのであった。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




