愛おしき人間界(ここ)で生きていく㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
元・奪衣婆として、数多の亡者を震え上がらせてきた冷徹な執行官の威厳は、今や見る影もない。
魂が肉体に完全定着し、生命活動が正常化されたことで、この数日間の極度の緊張とエネルギー消費が「猛烈な空腹」という人間の最も原始的な欲求となって押し寄せてきたのだ。
「……ぷっ。あははははっ!」
最初に吹き出したのは真喜だった。彼は腹を抱え、涙を流さんばかりに大笑いした。
「新子、お前……! あんなに感動的な別れと再会をした直後に、腹鳴らすか、普通!?」
「わ、笑わないでくださいませ! 人間の肉体は、定期的にエネルギーを補給しないと機能不全を起こすという、ただのシステムのアラートですわ!」
「システムのアラートね。実に愛おしい生命の叫びだ」
油江もまた、呆れたようにため息をつきながらも、その口元には心からの優しい笑みが浮かんでいた。
「よほど現世の飯に未練があったと見える。……仕方ない、フィールドワークの延長戦だ。君のその『システム』を満たすために、とびきり美味いディナーを奢ってあげよう」
「本当か!? よっしゃ、俺、焼き肉がいい! 新子も焼き肉食いたいよな!?」
「君のような野蛮な犬には聞いていない。エバの繊細な胃腸には、もっと上質なフレンチか……」
「焼き肉がいいですわ」
エバが真顔で即答すると、油江は眼鏡をズリッと滑らせ、真喜は「だろ!?」とガッツポーズをした。
「あの上等な和牛の脂と、甘辛いタレの絶妙なハーモニー。そして炊きたての白いご飯……。冥界にはあのような芳醇な食べ物は存在しませんの。考えるだけで、もう……」
エバはうっとりと目を細め、お腹を押さえた。
強欲や嫉妬を裁く執行官が、今やただの食欲の虜となっている。
「……やれやれ。地獄の王も、とんでもない食いしん坊を現世に放ってくれたものだ」
油江が肩をすくめ、真喜がエバの背中をポンと叩く。
「よし、決まりだ! 今夜は俺が腹いっぱい食わせてやる! ほら新子、行くぞ!」
三人は、冷たい海風の吹く埠頭を背にして歩き出した。
エバは、右に真喜、左に油江という、対極だけれどどちらも欠かすことのできない大切な二人と並んで歩きながら、夜空を見上げた。
(美味しい食べ物。面倒だけどリラックスできるお風呂。親友との他愛ないおしゃべり。そして、私を想ってくれる人たちとの、騒がしくて温かい時間)
冥界の無菌室のような静寂の中では決して手に入らなかった、色鮮やかで、煩わしくて、愛おしいノイズたち。
エバは足元のアスファルトの固さを確かめるように踏みしめながら、心の中で深く、強く宣言した。
(私は、生きていく。……閻魔大王様との契約を果たし、悪魔どもからこの美しい世界を守り抜きながら。菱倉新子として、そして私自身として、この愛おしき人間界で――)
冷たい夜風が、エバの長い髪を揺らす。
しかし、彼女の心は、かつてないほどの温かさと、明日への希望に満ち溢れていた。
三途の川か、それとも人間界か。
その究極の選択の果てに、エバは今、自らの足でしっかりと現世の光の中を歩み始めていたのである。
横浜の繁華街、深夜まで活気を帯びている高級焼き肉店の個室。
無煙ロースターの上で、極上の霜降り肉がジュージューと食欲をそそる音を立てて香ばしく焼き上がっていく。
「ほら新子、特上カルビが焼けたぞ! タレをたっぷりつけて、白飯の上でバウンドさせて食うんだ!」
真喜がトングを片手に、まるで餌を与える親鳥のように、エバの取り皿に次々と肉の山を築き上げていく。
「まぁ、ありがとうございます真喜さん! ……んんっ、口の中でとろけますわ! 和牛の脂の甘みと、このタレの塩味が、脳の快楽中枢を直接刺激して……!」
エバは目を輝かせ、令嬢としての作法も半分ほど忘れ去った様子で、熱々のカルビと白いご飯を頬張っていた。
冥界の底で何千年も『奪衣婆』として生きてきた彼女にとって、魂の維持に必要なのは冷たい霊力だけであり、食事という概念は存在しなかった。だからこそ、味覚という人間の持つ感覚器がもたらすこの暴力的なまでの多幸感は、何度味わっても新鮮な感動を彼女の魂に刻み込むのだ。
「やれやれ、見事な食べっぷりだ。だが真喜くん、そんなに脂っこい部位ばかり連続で食べさせたら、彼女の繊細な胃がもたれるだろう」
油江は呆れたように息を吐きながら、自らは赤ワインのグラスを優雅に傾け、網の端で丁寧に焼いた赤身のロースをエバの小皿に置いた。
「エバ、こちらは岩塩と山葵で食べたまえ。肉本来の旨味が引き立つはずだ」
「いただきますわ、教授。……美味しい! さっぱりとしていて、これならいくらでも食べられそうですわ!」
「ほら見ろ、油江教授! 新子の胃袋はブラックホールなんだよ! すいません、追加で牛タン塩三人前と、ハラミを二人前!」
「君のデリカシーの無さこそブラックホール級だな。エバの服に煙の匂いが染み付くじゃないか」
網を挟んで繰り広げられる、真喜の無骨な愛情と、油江のスマート(しかし独占欲に満ちた)エスコートの応酬。
エバは、口いっぱいに広がる肉の旨味を噛み締めながら、二人のやり取りを心底愛おしそうに見つめていた。
(熱いお肉を食べて、美味しいと感じること。笑い合う声が、鼓膜を震わせること。……私が冥界に帰還していれば、これらはすべて、手からこぼれ落ちる砂のように消え去っていた)
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




