愛おしき人間界(ここ)で生きていく㈠
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
光の奔流が収束し、急速に世界が『質量』を取り戻していく。
無重力空間から深海へと一気に引きずり込まれたかのような、強烈な重圧。そして――
「かはっ……! こほっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺の奥底に、冷たく湿った秋の夜風が暴力的なまでに流れ込んできた。
エバは冷たいコンクリートの地面に両手をつき、泥を吐き出すように激しく咳き込んだ。酸素が血流に乗り、全身の細胞が「生きている」という信号を脳へと一斉に送り始める。
心臓が、ドクン、ドクンと耳障りなほど大きく波打っている。
指先は凍えるように冷たく、アスファルトに擦りむいた掌からは微かな痛みが走る。
冥界のシステムの中では決して感じることのなかった、不自由で、脆弱で、ひどく生々しい肉体の感覚。
それが、エバの魂が完全に「菱倉新子」の器へと再定着した何よりの証拠だった。
(私……戻って、こられたのね……)
エバがゆっくりと顔を上げると、視界の先に広がるのは、永遠に続く鉛色の空と三途の川ではない。
街灯に照らされた横浜の暗い海と、遠くで瞬くみなとみらいの眩いイルミネーション。そして、埠頭の冷たい地面に倒れ伏している、二人の男の姿だった。
「真喜さん! 教授!」
エバはふらつく足に鞭を打ち、彼らの元へと駆け寄った。
死神の結界に弾き返され、強烈な衝撃を受けたはずの二人だが、油江がわずかに呻き声を上げ、真喜がゆっくりと身を起こそうとしているところだった。
「……っ、痛ぇ……。頭が、割れそうに……」
真喜が後頭部を押さえながら、焦点の合わない目を瞬かせる。そして、目の前に膝をつき、涙を浮かべて自分を見つめているエバの姿を視界に捉えた瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
「……新、子……?」
「はい。私です。真喜さん……っ」
真喜は弾かれたように立ち上がり、そのままエバの小さな身体を、自らの大きな腕の中に壊れんばかりの力で閉じ込めた。
「新子ォォォッ!! よかった……本当によかった……!」
真喜の絶叫に近い嗚咽が、夜の海に響き渡る。
彼の目から溢れ出した熱い涙がエバの首筋に落ち、その力強い抱擁は、エバの骨が軋むほどに過保護で、純粋な愛情に満ちていた。
「俺、お前が光の中に吸い込まれて消えちまうかと思って……。もう二度と、会えなくなるんじゃないかって……!」
「ごめんなさい、真喜さん。心配かけて、ごめんなさい……。私、もうどこにも行きませんわ。ずっと、ここにいます」
エバもまた、真喜の広い背中に腕を回し、声を上げて泣いた。
冥界のエリート執行官としての矜持など、とうの昔に消え去っていた。今この腕の中にある温もりと、生きた人間の重みこそが、彼女が地獄の淵を越えてまで守り抜きたかった、何よりも尊い宝物なのだ。
「……まったく。感動の再会に水を差すようだが、私のことも少しは労ってくれないか」
背後から、ひどく疲労の色を滲ませながらも、相変わらず冷徹で知的な響きを保った声がした。
油江颯が、ひび割れた眼鏡を指先で押し上げながら、ふらつく足取りで立ち上がっていた。彼の上等なスーツはコンクリートの粉で汚れ、額からは微かに血が滲んでいる。
「教授……! お怪我が……」
「これくらい、君を失う喪失感に比べれば擦り傷のようなものだ」
油江はエバと真喜の元へ歩み寄ると、真喜の腕の中からエバを強引に引き剥がし、自らの手で彼女の両頬を包み込んだ。
その氷のように冷たい指先とは裏腹に、油江の瞳の奥には、常軌を逸した安堵と、燃え盛るような執着の炎が渦巻いていた。
「……よく戻ってきたな、エバ。冥界の絶対的なシステムに逆らい、私の元へ帰還するとは。君は本当に、私の論理と常識を美しく破壊してくれる」
油江の顔が近づき、彼の吐息がエバの唇に触れるか触れないかの距離で止まる。
「君がどんな理屈で地獄の王を説き伏せたのかは知らない。だが、自らの意志でこの世界を選んだ以上、もう君を誰にも……それこそ死神にすら渡すつもりはないからね」
「ちょっと待て油江教授! どさくさに紛れて新子に顔を近づけるな!」
真喜が慌てて油江とエバの間に割り込み、大型犬が威嚇するように油江を睨みつけた。
「新子が戻ってきたのは、俺の愛が届いたからだ! あんたのその理屈っぽい頭脳のせいじゃない!」
「愛、だと? 笑わせるな、ゴールデンレトリバー君。君のその単細胞な熱量だけで次元の壁が超えられるなら、物理学はとうの昔に崩壊している。彼女を繋ぎ止めたのは、私の深い理解と……」
対極にある二人の「救世主」が、エバを挟んでいつものように火花を散らし始める。
それは、死の淵や冥界の静寂とは無縁の、あまりにも騒がしく、そして愛おしい人間界の日常の光景だった。
エバは二人の言い争いを見つめながら、ふふっ、と自然に笑みをこぼした。
その時だった。
――きゅるるるるるぅぅぅ……。
エバの腹部から、ロマンチックな雰囲気を完全にぶち壊す、派手で気の抜けた音が鳴り響いた。
「「…………」」
真喜と油江の口論がピタリと止まり、二人の視線が同時にエバのお腹へと向けられる。
エバの顔が、瞬く間に沸騰したように真っ赤に染まった。
「あ、あの……これは、その……」
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