閻魔大王からの「第三の選択肢」㈡
三途の川の『奪衣婆』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?
エバは青い光の球体を見つめた。
それは、彼女にとっての「本来の居場所」への帰還を意味する。真喜の不器用な笑顔も、油江の危険な囁きも、夕子と食べたパンケーキの味も、すべてがプログラムの初期化のように完全に消え去り、何も感じない永遠のシステムへと還る。
それは、人間界を知ってしまった今の彼女にとって、ある種の「死」よりも恐ろしい喪失だった。
『そして、第二の選択肢だ』
大王は白い光の球体を指し示した。
『お前は現世で多大な功績を上げた。その褒美として、冥界のシステムからお前を解放しよう。すべての記憶を忘却の川に流し、ただの純粋な魂として「輪廻転生の輪」に入るのだ。そうすれば、お前は次なる生で、完全な人間として生まれ変わることができる』
輪廻転生。
それは、人間になるという道。しかし、それもまた「忘却」を伴う。
生まれ変わったとしても、彼女の魂から『菱倉新子』としての記憶は完全に消滅する。当然、真喜や油江と再会したとしても、彼らを認識することはできない。
「……大王様。私の記憶を……この、人間界での温かい記憶を保ったまま、現世に戻ることは許されないのでしょうか?」
エバは跪いたまま、震える声で懇願した。
「私は、彼らを愛してしまいました。あの不完全で、脆くて、それでも美しい光の世界を、私は手放したくないのです……!」
冥界の絶対的な掟に逆らう、愚かで身勝手な願い。
大王の逆鱗に触れ、魂ごと消滅させられても文句は言えない。エバは覚悟を決めて目を固く閉じた。
しかし、玉座からの返答は、雷のような怒りではなく、静かな、そして深い企みを秘めた笑い声だった。
『ふははは……。あの冷徹無比なエリート官僚が、人間の男どもに絆され、大王である私に反逆の懇願を口にするとはな。……実に、実に面白い変化だ』
「え……?」
エバが恐る恐る顔を上げると、閻魔大王の黄金の瞳が、これまでにないほど鋭く、そして妖しく光っていた。
『エバよ。お前のその「人間への執着」、決して無駄ではない。……実を言うと、私は最初から、お前を単なる奪衣婆に戻すつもりも、輪廻の輪に放り込むつもりもなかったのだ』
大王が指を鳴らすと、エバの目の前に浮かんでいた二つの光の球体が弾け飛び、代わりに、禍々しい深紅の光を放つ「第三の球体」が出現した。
『選択の時だ。……我が最も優秀な執行官よ。私はお前に、掟破りの「第三の選択肢」を提示しよう』
禍々しくも美しい深紅の光を放つ、第三の球体。
エバは息を呑み、その光の奥に渦巻く途方もないエネルギーの波動を呆然と見つめた。それは、青い球体(冥界への完全復帰)の冷たさとも、白い球体(忘却による輪廻転生)の虚無とも違う、生々しいまでの「生」と「闘争」の熱を帯びていた。
『現世の理から外れた「特例」だ。お前のその記憶を完全に保ったまま、菱倉新子の肉体へと帰還することを許可しよう』
閻魔大王の言葉が、荘厳な裁定の間に木霊する。
エバの魂が、歓喜と信じられないという驚愕で大きく揺さぶられた。
「本当ですか……!? この記憶を持ったまま、あの温かい世界へ……真喜さんや、油江教授の元へ帰れると!?」
『ああ、そうだ』
大王は玉座から身を乗り出し、その黄金の瞳に冷徹な威厳を宿した。
『だが、勘違いするな。これは決して甘い「ご褒美」などではない。冥界の絶対の掟を曲げ、魂を不自然に現世へ繋ぎ止める対価として、お前には極めて危険で、過酷な「新たな使命」を背負ってもらうことになる』
「新たな、使命……?」
『近年、現世において我々冥界のシステムでは検知できない、異質な魂の歪みが頻発しているのだ』
大王が手をかざすと、空間のホログラムスクリーンに、現世の様々な凄惨な事件の映像が映し出された。
『天界の不可侵条約を破り、人間界の背後で密かに蠢く者たち。人間の「強欲」や「嫉妬」といった負の感情のわずかな隙間に忍び込み、その悪意を極限まで煽り立てて破滅へと導き、堕落した魂を極上の餌として貪る存在。……現世の宗教や伝承の言葉で言えば、「悪魔」と呼ばれる不可視の思念体どもだ』
「悪魔……!」
エバは戦慄した。彼女の脳裏に、自らを死の淵へ追いやった香々美の、あの異常なまでの嫉妬の暴走がフラッシュバックする。
香々美自身の弱さや強欲があったのは事実だ。しかし、一族の令嬢であった彼女が、殺人にまで手を染めるほどの狂気に取り憑かれた背後に、もしや『悪魔』の微かな囁きと扇動が介入していたというのか。
『悪魔どもは極めて狡猾だ。我々冥界の正規軍や死神たちが直接介入し、天界の管轄である彼らを狩り出そうとすれば、宇宙のバランスが崩れ、全面戦争になりかねん。……ゆえに、現世の肉体に完全に同調し、人間として怪しまれずに潜伏できる「規格外の駒」が必要だった』
大王の唇に、不敵な笑みが浮かぶ。
『冷徹なシステムであることを捨て、不完全な人間を愛するという致命的な「バグ」を抱え込んだ、お前のような異端の存在がな』
「私が……悪魔に対する、規格外の駒……」
『人間の愛を知り、その温かさに執着するお前ならば、悪魔がもたらす絶望の匂いや、日常に潜む悪意の微かな不協和音を、誰よりも敏感に嗅ぎ取れるはずだ。お前には、人間界に留まり、密かに悪魔の動向を探り、必要とあらば現世の理の範囲内でこれを狩る「特別監視官」……いや、『悪魔狩人』としての役目を与えよう』
閻魔大王は、人間界においての元妻エバの変容に驚愕していたが同時に期待していたのも事実であった。三途の川のほとりで淡々と作業をこなし生気を失っていく役目から解放したいと常々思念していたのである。
閻魔大王が示した選択肢は、冥界の掟を破る者たちを狩る、人間界に潜伏した暗殺者。
それが、記憶を保ったまま現世に戻るための、重すぎる対価であった。
『どうする、エバよ』
大王の声が、エバの魂の覚悟を問うように重くのしかかる。
『これは第一、第二の選択肢よりも遥かに血生臭い修羅の道だ。悪魔に敗れれば、現世での死はおろか、魂の完全消滅すらあり得る。平穏な日常など、いつ崩れ去るかわからん薄氷の上に立つようなものだ。……それでもお前は、あの不完全な人間どもを愛し、守るために、地獄の淵を越える覚悟があるか?』
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