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冥府令嬢の天秤1〜三途の川からお嬢様女子大生へ!冥界エリートの華麗なる事件簿〜  作者: たくみふじ
第一章 お嬢様は元・死者の案内人

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未知なる「人間」という不便な生き物㈠

三途の川の『奪衣婆だつえば』、現世では可憐なお嬢様女子大生!?

 退院の日、横浜の空はどこまでも高く、抜けるように青く澄み渡っていた。

 大学病院の正面玄関の車寄せには、周囲の景色を鏡のように反射するほど磨き上げられた、漆黒のメルセデス・ベンツが静かに滑り込んできた。重厚なエンジン音をわずかに響かせて停まったその車から、素早く運転席のドアを開けて降りてきたのは、初老に差し掛かった身なりの良い運転手、河上啓祐(けいすけ)である。彼は菱倉家で長年勤め上げている専属の運転手であり、新子の朱鳥女子大学への毎日の送迎も担当している、極めて実直で忠誠心の厚い男だった。


「新子お嬢様、ご退院、誠におめでとうございます。本当に……本当に良かったです」


 河上は車のドアを開けて深々と頭を下げた。その(しわ)の刻まれた顔は安堵に満ちており、絞り出すような声には微かに涙声が混じっていた。エバは、新子の脳の片隅に残された記憶の断片を引き出し、この初老の男が、雇い主の令嬢である新子のことを本物の孫のように慈しみ、心から可愛がっていたことを即座に理解した。


「ありがとう、河上さん。ご心配をおかけしてしまって、ごめんなさいね」


 エバは、新子の記憶と天使養成校で学んだ完璧な所作を融合させ、優雅で気品のある微笑みを返した。そして、差し出された白い手袋の手をそっと取り、ベンツの後部座席へと静かに乗り込んだ。最高級の革張りのシートが、彼女の華奢(きゃしゃ)な体を柔らかく、そしてしっかりと包み込む。

 冥界では、例えば閻魔庁に登庁する場合など、すべての移動は瞬間移動であった。空間と空間を繋ぐだけの移動において「乗り物」を使うという概念自体が存在しなかったエバにとって、この密閉された鉄の箱の中で、流れる景色を眺めながら時間をかけて目的地へ向かうという行為は、ひどく非効率的で奇妙なものに感じられた。しかし、窓の外を流れる人間界の景色は、無色透明な三途の川しか知らない彼女の目には、あまりにも鮮烈だった。

 車は静かに発進し、横浜市下区の芦屋へと向かってなだらかな坂道を下っていく。窓ガラス越しに差し込む春の陽光が、エバの艶やかな黒髪をきらきらと照らし出す。気温、湿度、明暗を意識することのない冥界とは違い、人間界には季節があり、朝昼晩という明確な時間の移ろいがある。視界に飛び込んでくる街路樹の鮮やかな緑、すれ違う人々の色とりどりの衣服、そして遠くに見える真っ青な海。白と黒の無彩色の世界で、ただ永遠に等しい時間を過ごしてきた彼女にとって、この世界の色彩は暴力的なまでに美しく、そして情報量が多すぎた。

「お嬢様、空調の温度はいかがでしょうか? 寒くはございませんか?」

 バックミラー越しに、河上が気遣わしげに声をかけてくる。


「ええ、ちょうどいいわ。ありがとう」


 エバは短く答え、再び窓の外へと視線を向けた。河上の新子に対する態度は、純粋な奉仕の精神と親愛の情から来るものだ。冥界の死神たちを育成する「黒き学び舎」の掟では、他者に対して利害関係を超えた仲間意識や信頼、情愛といった関係を構築することは固く禁じられている。仲間とは任務達成のために一時的に共闘する代替可能な資源に過ぎず、信頼関係ではなく利害の一致によってのみ成立するものだと徹底的に教え込まれるのだ。しかし、この人間界では、血の繋がりがなくとも、無条件で他者を思いやるという非合理的な感情が当たり前のように存在している。それが、エバにはひどく不可解でありながら、どこか心をざわつかせる要因でもあった。

 やがて車は、横浜の中でも指折りの歴史ある高級住宅街である芦屋へと入っていった。鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた、広大な敷地を持つ豪邸が立ち並び、すれ違う車も高級外車ばかりである。しばらく進むと、ひときわ巨大で重厚な、黒塗りの鉄の門扉が見えてきた。河上がリモコンを操作すると、門扉が重々しい音を立てて自動で左右に開く。そこを抜けると、専属の庭師が手入れを行き届かせた広大な日本庭園が広がり、その奥には、昭和初期の繁栄を今に伝える和洋折衷の巨大な屋敷が、圧倒的な威圧感を持ってそびえ立っていた。これが、かつて財閥と呼ばれた菱倉一族の本邸である。

 車が玄関の車寄せに停まると、すでにそこにはずらりと並んだ使用人たちが出迎えていた。そして、その中心に立っていたのは、大げさなほどに涙ぐみ、今にも泣き出しそうな顔をした菱倉商事の絶対的権力者、祖父の剛蔵だった。


「おお、新子! よくぞ生きて戻ってきてくれた! 我が家にようやく太陽の光が戻ってきたぞ!」


 剛蔵は普段愛用している立派な杖を放り出しそうな勢いで歩み寄り、車から降りたエバを力強く抱きしめた。その暑苦しいほどの愛情表現と、老体から発せられるむせ返るような熱気に、エバは内心で大きく辟易(へきえき)した。

 天使養成校の教育理念において、宇宙の調和を乱す最大の要因は「不確かさ」であるとされている。中でも、個人的な感情に起因する「愛」は、最も不確かで予測不可能な変数であり、特定の魂を贔屓して全体の調和を乱す原因となるため、公的な判断においては完全に排除されるべき個人的な感情だと徹底的に教育されてきたのだ。冥府の官吏であるエバにとって、この老人が向けてくる無条件の盲目的な愛は、まさにバグそのものであった。


「ただいま戻りました、おじいさま。もうすっかり元気ですから、どうかそんなに泣かないでくださいな。血圧が上がってしまいますわ」


 エバは内心の戸惑いを微塵(みじん)も表に出さず、顔には完璧な令嬢としての優美な笑みを貼り付けて、剛蔵の背中をそっと撫でた。


「泣かずにいられるものか! お前は菱倉の至宝、私の目の中に入れても痛くない宝なのだ。お前をあんな目に遭わせた憎き犯人はまだ見つかっておらんが、警察上層部には徹底的に捜査するよう私の名で圧力をかけてある! 必ず見つけ出し、地の果てまで追い詰めて菱倉の力で相応の報いを受けさせてやるからな!」


 剛蔵の怒号が、広い玄関ホールにビリビリと響き渡る。その後ろで、社長であり新子の父である慶太と、上品な着物姿の母・朋美が、困ったように、しかし心の底から安堵したような微笑みを浮かべて立っていた。さらにその後ろには、パリッとしたスーツを着こなし、いかにも優秀そうな空気をまとった青年、兄の剛志が優しく微笑んでいる。


「おじいちゃん、新子が疲れてしまうよ。立ち話はこれくらいにして、早く中へ入れてあげよう」

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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